小林よしのり『靖国論』(3)

charis2005-09-10

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


小林氏は『靖国論』で繰り返し、慰霊=死者の霊魂の存在の承認=宗教、という等値を述べる。死者の慰霊は、すなわち死後の霊魂の存在を認めることであり、それはとりもなおさず宗教であると言われる。そして、日本人の場合、この宗教は神道だから、靖国方式の慰霊しかありえないという結論になる。だが、神道の問題は今は措くとして、この三者の等値に靖国問題を直接つなげるところが、氏の靖国論の最大の問題点なのである。 (写真は、古代ギリシアの「死につつある戦士」像。アテネの沖合いにあるアイギナ島[現在のエイナ島]のアテナ・アパイア神殿の彫刻。)


靖国問題の本質は、近代国家が遂行する戦争による国民の大量死という歴史的に新しい現象が、戦死者の追悼への国家の関与を要請しており、死者一般を慰霊する伝統的な宗教の慰霊には収まらなくなったという点にある。天寿をまっとうした自然死による死者の宗教的追悼と、戦死者に対する国家の追悼は、本来まったく性格が異なる。にもかかわらず、小林氏は、靖国神道=宗教という等値図式に靖国を結合させる。それは、近代国家による戦死者に対して、本当にあるべき追悼の可能性を閉ざしてしまうことになる。


小林氏は、国立の無宗教戦没者墓地、あるいは追悼施設を批判して、次のように言う。「墓地を造って、献花するなり、お参りするなり、何か儀式をやったら、それはすでに宗教ではないか!」(p88)「死者の霊魂を信じない限り、墓地を作ることの意味などないではないか! 無宗教なら墓地など造るな!」(同)。無宗教の国立追悼施設では慰霊にならない。「[英霊は、無宗教の]国立墓地には、絶対に引っ越してくれないだろう」(p89)。だが、ここに見られる「霊が引っ越す」という氏の表現に含まれるものこそ、実は問題の本質なのである。「引っ越す」のではなく、二重の慰霊が行われるからである。


靖国は墓地ではない。靖国には遺骨も位牌もない。靖国に祀られている戦死者の多くは、自分の故郷に墓があり、それぞれの家族や関係者によって私的な慰霊が営まれたはずである。戦地において遺骸の焼却や埋葬が行われた場合は、そこでも何らかの慰霊の行為がなされたであろう。しかし、靖国における慰霊は、こうした慰霊とは別に、それに加えて行われる、いわば二重の慰霊である。本来、平凡な一庶民の死を悲しみ、追悼するのは、生前に死者と親しく交わった人々、つまり家族や友人である。これが死者一般の慰霊であり、歴史的には、その大部分が、本人と家族が関係するさまざまな宗教・宗派によって遂行されてきた。宗教はこの意味で「私的」なのである。


だが、国家による戦死者の慰霊の場合は、戦争に動員した責任主体である国家が、死者を慰霊することを求められる。つまり、国家という抽象的主体は、死者の死の原因を作った者であるがゆえに、死者を慰霊するのである。だからそれは、死の原因とは無関係の家族による慰霊とは異なる本性をもっており、「国家としての戦争責任を表明する」ことが、その慰霊の本質である。だからそれは、国家としてその戦争をどのように捉えるかという「戦争の自己認識」と切り離すことができない。A級戦犯の問題はここに関連するのであって、「日本人の慰霊一般の心の問題」に還元することはできないのである(以下、続く)。