小林よしのり『靖国論』(4)

charis2005-09-13

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


今日は、小林氏の宗教論の誤りを指摘したい。小林氏は、「宗教はすべて死者の霊魂の存在を前提する」と考えておられる。例えば、「墓地がすでに死者の霊魂の存在を前提にしている宗教的施設である」(p169)。「死者の霊魂を信じるという宗教心の前提があって、<追悼>という言葉も出てくる」(p97)。だが、これは誤りである。何よりもまず、日本の代表的宗教である仏教の真の教説は、死者の霊魂の存在を認めない。このことを二回にわたって紹介したい。(写真は、「説法するブッダ」像、インド、5世紀)


仏教は、古代インドで生まれた宗教で、先行宗教であるバラモン教の「アートマン=魂」の説を否定するところに成立した。仏教の教えの核心は、「魂」のような実体的なものを否定するところにあり、「死後の魂の永遠不滅」を説くキリスト教とはまったく異なる。以下、日本を代表する仏教学者である中村元博士と、現代の曹洞宗の若手学僧として名高い南直哉師の著作から引用しよう。


「仏教では古くから霊魂(jiva)あるいは生存者(有情sattava)というような形而上学的原理を想定することを拒否し、またその態度は後世にも継承されている。」(中村元『自我と無我』1963、平楽寺書店、p94)


原始仏教では、<識>という形而上学的原理を立てることを承認しなかった。この態度は仏教においては後世に至るまで一貫している。そうして初期の仏教徒―おそらくブッダ自身も―は、認識作用・了別作用としての識(vijnana)を具体的経験的現象の領域に属するものと考え、それから絶対的原理としての性格を奪い、それはそのときどきの現実の感官による経験によって起こるものだと定めた。そして識を本質とするアートマンを想定することは、形而上学的な問題に逸脱するから、無意義であり、また誤りでもある、と主張した。(中村元『仏教思想9、心』1984、平楽寺書店、p31-2)


「問い: そういう筋の話だとすると、「輪廻」とか「前世」「来世」とかの話はお伽話になってしまうな。
答え: 釈尊は、当時の民衆に教えを説く場合、それらの土着観念を利用しただろう。しかし、彼の最も基本的でユニークな考え方に従えば、「輪廻」や「霊魂」の実在、さらにはそれらを前提に説かれる「前世」「来世」の実在も、肯定はされない。道元禅師もそうだろう。」(南直哉『問いから始まる仏教』2004、佼成出版社、p206)


「問い: そう解釈するなら、霊魂の実在は想定されないな。
答え:肉体の消滅と関係なく、常に同じ自意識を保ち続けるような存在、あるいは肉体と無関係に「自分」であり続けるもの、すなわち霊魂的存在は、「輪廻」の考え方には必要だろうが、「業」は別だ。「業」の問題は、行為であり、霊魂ではない。」(同、p207)


以上から分るように、宗教である仏教は、死後も存続する霊魂の存在を認めない。次回はこのことを証示する、興味深いキリスト教資料を紹介しよう。