小林よしのり『靖国論』(6)

charis2005-09-16

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 2005.8.1)


古代ギリシアのポリス、テーバイの王女アンティゴネは、敵軍に加わった「反逆者」である兄ポリュネイケスの遺骸を、埋葬を禁じる国王の命令に背いて埋葬した。それを咎められて、彼女は死に追いやられる。アンティゴネは、肉親の愛情からする慰霊と、国家の論理からする慰霊との矛盾を、自らの死をもって露わにしたのである。アンティゴネに深く傾倒した哲学者ヘーゲルは、彼女に「イエスよりも崇高」という最高の賛辞を捧げた。戦死者の追悼は、肉親による慰霊と国家による慰霊という二重性をもっており、この二重性は、古代以来の難問の一つである。以上を念頭に、小林氏の議論を検討しよう。(写真は、Genevieve Bujold演じるアンティゴネ。74年フランス映画、G.Freedman監督。米発売のDVD)


小林氏は、戦没者の慰霊を神道形式で行うことを正当化するために、日本古来のアニミズムの自然信仰を持ち出す。「日本の<カミ>は精霊のようなもので、人間だけでなく、石ころから、樹木から、井戸から、かまどから、動物にまで、森羅万象何にでも宿る。だから日本は八百万の神の国なのだ」(p171)。これは、時代の限定が必要であることを除けば、必ずしも間違っていない。しかし氏は、こうしたアニミズムを、「神道は日本人の自然信仰と結びついている」という理由で、神道=宗教に結びつけて、「本来、日本人が無宗教ということはありえない」(p173)、「[無神論者が何と言おうと]残念ながら日本人は、神仏・霊魂を信じてしまう」(p175)という間違った方向に飛躍する。無宗教の日本人を、日本人にふさわしくない逸脱した者とみなすことは、近代社会の基本前提、すなわち、社会は神や霊魂を信じない者と、信じる者の両方から構成されるという基本前提に抵触する。古代のアニミズムを根拠に、現代の日本人をひとしなみに「神仏・霊魂を信じる」人間とみなすことは、信仰という私的な領域と、宗教に対して中立であるべき国家の公共的な領域を混同することである。靖国問題は、まさにこの二つの領域の先鋭な対立であるが、今日は、このうちの前者について考える。


まず、慰霊のもっとも本来の形態は、家族や関係者による私的な埋葬と慰霊である。天寿をまっとうした死者の場合、その死の理由はほとんどが身体的な寿命によるもので、その死の原因に、公共的な要素は含まれていない。だから葬儀は、私的に営まれる。それに対して、警官や消防士の殉職などの場合は、死の原因に公共的な要素があるので、何らかの形で公的な要素が葬儀に加わり、慰霊は二重化される。


死後の霊魂の存在を信じない現代人も、肉親や友人や同僚の死を悲しみ、葬儀をして、慰霊をする。これは何を意味しているのだろうか。小林氏の言うように、死後の霊魂の存在を信じなければ、本当は葬儀も慰霊もできないのだろうか? そうではない。我々が肉親や友人の死を悼むのは、死後の霊魂の存在を信じるからではない。でも我々は、死者に心を込めて「あなた」と語りかけ、呼びかけるではないか? 我々が呼びかけ、語りかける「あなた」はどこにいるのか? それは、かつて私とともに過ごした、「あの時、あの場所にいる、あなた」である。それは、あの笑顔、あのしぐさ、あの声をした「あなた」である。私が呼びかける「あなた」は、死後の霊魂ではない。私と「あなた」が人生において出会い、接触した、まさにその接触点にいる「あなた」なのである。


我々が他者の死に動揺し、悲しむのは、他者との接触が我々の人生の内実をなすからである。ここでは論じる余裕がないが、哲学には「他人の心」という難問がある。生きている人の場合も、「その人の心」を直接知ることはできず、厳密には、その人に心があるかどうかは分らないという難問である。我々が直接に知ることができるのは、他者の外面であり、表情であり、語られた言葉だけである。にもかかわらず、他者の表情や声に、我々はその人の心を「見たり、聞いたり」する。これは錯覚ではなく、心というものは、本来、そのようにしか存在しないのであり、その人の表情や声があるところに、その人の心も存在する。魂や霊魂という言葉で我々が理解しているのは、この意味での「他人の心」である。小林氏の本に描かれている「英霊」もみな、顔や表情をもち、どれも若者らしい優しい笑顔で微笑んでいる。ここにはまったく嘘は含まれていない。我々にとっての死者、我々が「あなた」と呼びかける死者は、我々が人生を共にした者たちであり、過去の「その時、その場所」にいる「あなた」なのである。我々が死者を問題にする場合、当の死者は、いかなる意味においても、これ以外の仕方で存在してはいない。


我々が人生を共にする時間が一番長いのは、肉親であろう。だから、死者への追悼は、基本的には肉親が主体となり、ここに宗教の深い私的性格がある。これに、国家が原因となって、本来生きるべきであった若者を死なせる戦死という新しい要素が加わったとしても、死者の追悼は、本来その人と人生を共にした者によって行われるべきだという、根本性格が見失われてはいけない。アンティゴネの兄の埋葬は、ヘーゲルによれば、「ポリスの掟(公共性)」よりも「オイコス(家庭)の掟」を優先させるものなのである。