小林よしのり『靖国論』(7)

charis2005-09-17

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


リア王の三女コーディリアは、家族愛ゆえ自ら軍を率いて参戦したが、戦闘に負けて捕えられ獄死する。広義には戦死であろう。が、その獄死は、敵王エドマンドの命令の行き違いという偶然性に由来する。悔やんでも悔やみきれない偶然による王女の死。もっとも残酷な死といえる。(挿絵は、1756年、ロンドンのコヴェント・ガーデンにおける『リア王』公演。Mrs Cibber演じるコーディリアが、エドマンドの手下たちに襲われるシーン。原作にはない。)


昨日に続いて、「死者の霊魂」という観点から、小林氏の批判を続ける。小林氏は無神論者や唯物論者を痛烈に罵倒する。「神も仏も霊魂も死者の世界も意識下ですら信じていない人間、自分を超越する何かにすがることが絶対にない人間とはお友達になりたくない。不気味なニヒリズムに精神が侵食されていそうで、ある日、突然、発狂しそうで怖い」「そんなやつは、ある日、小学校に乱入し、次々に子供を刺してしまいそうな気がするじゃないか。あるいは町内運動会でカレーに毒物を入れたり・・・」(p173-4)。冗談ではない。私は「神も仏も霊魂も死者の世界も意識下ですら信じていない」が、子供を刺し殺しもしないし、カレーに毒も入れない。小林氏の人間理解には、何か大きな錯覚がある。


我々が死者を悼み、死者に「あなた」と呼びかけるのは、死後の霊魂や死者の世界を信じるからではない。私が呼びかけるのは、あの時、あの場所で私が出会った「あなた」、すなわち、生者としての「あなた」である。それ以外に「あなた」は存在しない。死者の追悼は、死後に残された者、すなわち死者と生を共にした者が、その「生の共有」に対して向けられる祈りである。私と「あなた」が共に生きた、その「生の共有」に対して祈るのである。この「生の共有」が失われたために、残された者は死者に対して「後ろめたさ」「負い目」の感情を持つ。しかし同時に、この「生の共有」に向けられる視線は、死者が生きた人生の行為の意味を私が引き継げることを意味する。これが「歴史」の核心にあるものであり、死者との「生の共有」から視線を逸らさないからこそ、死者はその死後も「我々と共に生きる」のである。


「死者は生者の記憶の内で生きる」とよく言われるが、これは、引き出しの中に物があるように理解されてはならない。「他者の心」が、その人の表情や仕草にあるのと同様に、残された者の視線が「生の共有」にあるからこそ、死者のかつての喜びや悲しみを、我々自身が感じ、死者の呼び声に耳を傾けることができる。死後の霊魂や死者の国を仮定することは、死者を亡霊化するものであり、死者に向き合う正しい態度ではない。そして、死者との「生の共有」を、死者と向き合う真の地盤とみなすとき、死者のかつての生の意味を「共に作り出す」ことができる。過去とは、意味の定まった既成事実ではない。残された者が、死者との「生の共有」に繰り返し向き合うことによって、死者と「共に作り出す」ものである。ある意味では、過去は「遡って作り出される」と言ってもよい。特攻隊員の遺書と向き合うとき、我々がどのような態度を取れば、彼の死を「無駄死」にせず、彼を真に慰霊することになるのか。これは、東京裁判への評価とともに、稿を改めて考えるが、大切なことは、死者の霊魂といった転倒された構図を立てないように細心の注意を払い、つねに死者との「生の共有」の地盤に立とうと努めることである。


哲学者フォイエルバッハは、神の本質は、人間の本質が転倒して外部に出されたものであると考えた。人間の本質とは「愛」であるが、人間にとって一番大切なこの「愛」を、我々はまっとうな形で自分の内に実現することがなかなかできない。だから、その代償として、自分の外部に逃げてしまった「愛」を、外部にある「神」という存在に擬して、その前に跪いて祈るのである。この深い転倒の中では、「愛」の深い者ほど、「神」を強く求めることになる。人類は、何と長い歴史を、この転倒の内に過ごしてきたことか。だが、死者の追悼においては、現代の我々もまた、似たような転倒に陥りやすい。靖国神社で毎年7月に行われる「みたままつり」に、小林氏は献灯の絵を描いている。そこに描かれた「英霊」の絵は、限りなく美しい(p163)。今年のものは「ひめゆり部隊」であろうか(p25)、簡潔な筆致で描かれた少女たちの姿の前で、釘付けにならない者はいないだろう。ファンに見つかるのが恥ずかしいから自分は見に行かないという、氏の謙虚な人柄にも好感がもてる。だが、そうであればこそ、深く転倒した構図の中で、「英霊」を限りなく美しく描く小林氏に対して、私は深い怒りを感じないわけにはいかない。とはいえ、この転倒を人類が意識したのは、ヒト誕生後200万年の歴史の中で、ごく最近のことである。この転倒から自由になるためには、我々はまだ多くの努力が必要なのだ。