小林よしのり『靖国論』(12)

charis2005-10-13

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


(写真は、1945年9月27日、米国大使館にマッカーサーを訪問した昭和天皇。腰に両手を回したマッカーサーと、直立不動に近い天皇の姿勢は、日本人に衝撃を与えた。)


小林氏の『靖国論』は、『戦争論』3巻からの抜粋なので、『戦争論』も参照しながら、『靖国論』の背景にある“よしりん史観”を検討したい。『戦争論』を瞥見してまず気が付くのは、きわめて一面的な「戦後観」が“よしりん史観”の基調をなしていることである。小林氏は、アメリカの戦後の占領政策によって、日本人は完全に「洗脳」されて、先のアジア・太平洋戦争の「戦争責任」が日本にあるという誤った認識を持たされたと考える。しかし奇妙なことに、その議論には、GHQによる日本の「戦争責任」の「洗脳政策」における「天皇の位置づけ」が完全に(あるいは故意に)抜け落ちている。小林氏は、GHQの占領政策と、それにやすやすと「洗脳」された戦後日本人を厳しく断罪する。それは「鬼畜米英」への特攻隊攻撃に命を捧げた「英霊」を裏切るものだと言う。だが、日本の「戦争責任」をめぐるGHQの政策は、実際は、占領政策遂行上の得失からする昭和天皇の戦争責任の免責と不即不離の関係にあった。天皇の戦争責任という肝心の問題をスルーしたままで、GHQの「洗脳政策」だけを非難することはできない。ここに“よしりん史観”の致命的な欠陥があるのである。


戦争論』第2巻431−2頁で、小林氏は、『昭和天皇独白録』を引用して、いわゆる「開戦の聖断」すなわち真珠湾攻撃による対米戦争を天皇が決断したことに対して、天皇に責任はなかったとして、次のように正当化する。以下、432頁の小林氏の文章をそのまま引用。

「戦後、昭和20年9月27日、天皇が初めてマッカーサーと会見した時、[天皇は]自分は<これを防止したいと思った>と言った。」
[マッカーサーの質問]「もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったか?」
[昭和天皇の答え]「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いていてくれているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押し込めておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう。」
[小林]「昭和天皇独白録では、開戦の時と終戦の時の「聖断」の違いについても天皇自ら分析している。」
[昭和天皇]「開戦の際、東条内閣の決定をわたしが裁可したのは、立憲政治下における立憲君主としてやむをえぬ事である。もし己が好むところは裁可し、好まざるところは裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なるところはない。終戦の際は、しかしながら、これは事情を異にし、廟議(びょうぎ)がまとまらず、鈴木総理は議論の分裂のまま、その裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に、私が是なりと信ずるところに依りて、事を裁いたのである。」


要するに、ここで昭和天皇が言っているのは、「開戦の決断」においては、立憲君主制下の内閣が決めたことなのだから、「専制君主」でない自分が反対することは法的にもできないし、もし自分が反対したら、国民は「自分を精神病院に入れた」であろう。しかし「終戦の決断」は違う。内閣の方針が決まらなかったのだから、自分が裁断した。つまり、「開戦の決断」は、反対できるような状況になかったのだから、自分に責任はないが、「終戦の決断」は自分の意志で行った。


小林氏は、以上の天皇の発言を論拠に、「天皇は<専制君主>にならぬように自覚していた」のだから、「<天皇の戦争責任>など論じている者の神経がわしにはまったくわからない」と述べている(432頁)。だが、小林氏が引用した天皇の発言は、天皇の戦争責任を免除するために、あまりにも都合よく出来すぎていることに、誰もが首をかしげるであろう。「国民が自分を愛していれば、精神病院に入れ、・・・愛していなければ首をちょんぎったでしょう」というのは、戦前の天皇制の実態からかけ離れた発言と言わざるをえない。


小林氏は無邪気に『昭和天皇独白録』から引用しているが、歴史の専門家の研究によって、この『昭和天皇独白録』は非常に政治的な文書であることが明らかにされている。もし『独白録』が、戦前に昭和天皇が実際に発言した内容を侍従が書きとめたものならば、それは非常に信頼できる文書であったであろう。ところが、そうではない。この『独白録』は、東京裁判への対応として、昭和21年3月18日から、5人の日本人が急いで天皇にインタビューを行い、天皇が自分の「記憶」をもとに語ったとされる文書なのである。しかも5人の日本人のうち、2人はGHQと深い関係にあり、一人はGHQ側の文書に「極秘の情報提供者」と記されており、他の一人は外相吉田茂から「GHQとの連絡係」と呼ばれた人物である(吉田裕『昭和天皇終戦史』1992)。つまり、『昭和天皇独白録』はGHQの占領政策と密接に結びついて成立した文書であって、小林氏がそれに素朴に依拠するならば、実は、“よしりん史観”そのものに深い亀裂をもたらす両刃の剣なのである。(続く)