野田秀樹『贋作・罪と罰』

charis2005-12-22

[演劇] 野田秀樹『贋作・罪と罰』 12/22 コクーン


(写真は、松たか子扮するヒロインの三条英(はなぶさ)。英はラスコーリニコフの女性版だが、明治維新の勤皇の志士グループの中に置かれることによって、女性テロリストのメタファーになっている。9.11よりはるか以前、1995年の初演だが、野田の天才的な想像力が作り出した、新しいヒロイン像だ。終始、絶叫調で、劇中一度も笑わない彼女が、最後にかすかに吐露する恋愛感情の美しさは、戦慄を覚えるほどだ。)


野田秀樹の作品は多数見てきたが、彼の作風は、初期の「夢の遊眠社」時代の軽やかな笑劇が、90年代には思想性のある「凝った物語」に発展してゆく。私は、彼の最高傑作は『パンドラの鐘』だと考えているが、95年の初演を観られなかった今回の『贋作・罪と罰』は、『パンドラの鐘』と共通点の多い、野田「思想劇」の傑作だ。


そもそも、ラスコーリニコフを若い美女に造形し、その犯罪をテロリズムに置換しながら、しかも幕末の怪しげな「勤皇の志士」グループの笑劇の中心に据えるなどという離れ業を、野田以外の誰ができるだろうか。しかもヒロインの英(はなぶさ)は、ニセ坂本竜馬の恋人という物語性が卓抜だ。ニセ坂本竜馬は、どうしようもない拝金主義者で、思想性はまったくない。徳川将軍をカネの力で屈服させようとする「品のない男」で、なんだか当今のIT長者にも似ている。演ずる古田新太の何という上手さ! 『パンドラの鐘』のインチキ考古学教授も見事だったが、品性下劣な「面白い男」を演じさせたら、彼ほどの役者はいない。倒幕に奔走する「勤皇の志士」も、怪しげで薄っぺらな青年ばかりで、議論は大好きだが実行力はないという、インテリが風刺されている。「天才は殺人を許されるか」というラスコーリニコフの問いも、彼らは書生風に勇ましく「一般論として」議論するだけ。


そうした騒がしく腑抜けな男たちの群れの中に、ただ一人置かれた紅一点。それが、一切の笑いと「一般論」を拒絶する女テロリスト、英である。美しい女テロリストを共感を込めて造型することは、文脈がとても難しい。パレスチナアルカイダイラクという「現場」に置いたのでは、我々は作品を楽しむことができない。明治維新という「離れた文脈」の、しかも喜劇の中に置いたのが、野田の真骨頂である。長崎の原爆を主題にした『パンドラの鐘』のヒロイン「ヒメ女」を、古代の王女にしたのと同型である。


女版ラスコーリニコフにしてテロリスト、英の限りない美しさに我々が戦慄するのは、彼女が等身大の女ではなく、実は「神話的形象」だからである。その頑なな非妥協的人格には、アンティゴネやコーディリアに通底するものがある。ヘーゲルアンティゴネを「イエスより崇高」と称えたが、たしかに我々は、程度の差はあれ、女版イエスに不思議な感情を持つことは事実である。それは彼女たちの死によって、我々の生が贖われたように感じるからであろう。『パンドラの鐘』はまったくその通りの、「西洋悲劇の伝統」を踏襲する物語だったが、『贋作・罪と罰』では、英は入獄するが死にはしない。死ぬのは、偶然に殺されるニセ坂本竜馬の方だ。ダメ男の恋人の「犬死に」の傍らで、英は、明治新政府の恩赦によって転生する。死ぬべきだった英の身代わりになって、彼は死んだのだ。ずっこけた死体の傍らに立ち尽くす、ヒロインの英。死者と生者の間の崇高な愛。これは、喜劇の形をとった、人類の救済の物語である。


プログラムの中で、野田と対談した蜷川幸雄が野田に向かって言っている。「お前は、役者として舞台に立っても三流なんだから、そんなことより、とにかく新作を書け! 劇作家として天才なんだよ、お前は。」

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パンドラの鐘』の舞台写真集は↓
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