上野千鶴子『脱アイデンティティ』

charis2006-01-05

[読書]  上野千鶴子編『脱アイデンティティ
(勁草書房、05年12月)


(挿絵は、アンティゴネオイコス[=かまど、家庭]の掟=肉親の愛情と、ポリスの掟との相克は、彼女を「二つの私」に引き裂き、破滅させた。ヘーゲルラカンアンティゴネ論を批判して、ジュディス・バトラーは「近親愛の可能性」を指摘したが、死角を突いて鋭い。)


「自我」とは一枚板の「本質」や「実体」ではなく、「複数の私」を内部に含む多元的なものであり、「一貫性を欠いたまま[多元的自我を]横断して暮らすことは、もはや病理ではなく、ポストモダン的な個人の通常のありかたである」(p35)というのが、本書の根本テーゼ。上野論文についてはアマゾンのレヴューに書いたので、ここでは残りの論文の幾つかをノート。


(1) 第3章、三浦展論文。『下流社会』の著者だが、80年代からパルコでマーケティングや広報を担当し、消費者の「欲望」を分析する専門家だ。生活必需品がほぼ満たされた成熟社会における消費者は、自分自身の欲望が自明ではなくなり、「自分らしさ」という名の「自分の物語」を作りながら、それに見合う欲望を形成しなければならない。しかし「自分らしさの物語をうまく紡ぎ出せる」若者は多くなく、80年代にはマニュアルが渇望された(p105f.)。が、マニュアル化の進展は「自分らしさ」の反対なので、不満がつのり、いよいよ「自分探し」が求められることになった(80年代終り以降)。このような欲望とアイデンティティ探究のイタチごっこの果てに、「欲求の統合ができない」「・・らしさ神話の崩壊」「フツーでいい」等々の、「複数の私」の難しい問題状況も顕わになってきた。


(2) 第4章、斉藤環論文。ラカン派の論客で、「社会の心理学化」という分析の視点が卓抜。精神分析の用語が人口に膾炙するにつれて、そのタームで自己を捉えようとする人間が増えた。70年代から80年代にかけて、ボーダーライン(境界性人格障害)という障害が広範に見られるようになったが、このような患者に対しては、「どれほど解釈を投与しても<治癒>は起こらない。それは彼らがあらかじめ自己分析によって精神分析化された患者だからだ」(150)。患者はすでに精神分析的に自己解釈してしまっているので、精神科医があらためて「解釈を投与」しても、もはやその「薬」は二番煎じで「効かない」のだ。「精神分析以後の世界、すなわち自己分析が自己表現の前提にされる社会では、失策行為すらも操作的になされる。」「かくして、精神分析の知見もまた、社会を再帰的に支える近代システムの一部と化した」(157)。このように、我々の「アイデンティティ」の意識は、制度化された知としての精神分析や心理学を含めて成り立っている。現代では誰もが、「ストレス」「トラウマ」「抑圧」「幼児期の成長障害」等の概念を多少とも使いながら自己解釈しているので、「洞察の過剰によって軽症の病理を抱え込む者を増加させる」(157)結果を招いた。アイデンティティとは、実に複雑な産物なのである。


(3) 第7章、小森陽一論文。知らなかったことが多いので衝撃的だった。現在、我々が使っている「日本語」は、明治新政府が意図的・戦略的に構築をリードした”人工・翻訳言語”の側面を持っており、日本語の「アイデンティティ」を自明視してはいけない、というのが主旨。たとえば「社会」「会社」「権利」「利権」など、近代日本語には異常なまでに漢字二字熟語が多い。これは、明治政府の言語政策とそれを受けたメディアが、「英語の重要な概念を徹底して漢字二字熟語に翻訳して、あたかも日本語であるかのように流通させた」(244)結果である。それが翻訳のための造語であることを知っているのは、人口の一割にも満たない知識階級であり、多くの庶民には「シャカイ」「ケンリ」といった意味のない音が聞こえているだけだった。このような国では「人権」意識が育つはずもない。小森はデリダの「私は一つしか言語を持っていない、ところがそれは私のものではない」という言葉を引用しながら、我々の「持っている日本語」を素朴に「自分のもの」とみなす態度を批判する。そして「英語帝国主義」というすぐれて今日的な問題にも触れる。


(4) 第8章、千田有紀論文。著者はフェミニズムの専門研究者。90年代以降、バトラーの影響などで「女は一枚板ではない」という言説が支配的になり、「バトラー以前のフェミニズムが、まるで<女の同一性>に基づいた単純な主張であったかのように、フェミニズムの歴史が単純化されてしまったこと」(277)を、千田は批判する。70年代フェミニズムは「女というアイデンティティに基づき、女の同一性を主張した」(278)が、それは当時の政治的な文脈の中では、「女」をめぐる「ダブルスタンダード」を暴露・批判する機能を持った。「女の同一性」というカテゴリーの歴史的文脈を見落としてはならないのだ。


多様な分野の筆者を揃えたのは本書の魅力の一つだが、欲を言えば、ラカン派の論文がもう一本あってもよかった。ラカン派は、存在する言語は男性言語だから女性は女性としての自我を形成できないという(=「女は存在しない」)。フェミニズム理論はラカン派をどう活用・批判するのだろうか? 上野、斉藤、千田の論考からは、「女は存在しない」という話がその後どうなったのか、よく分らないからだ。