映画『プライドと偏見』

charis2006-01-31

[映画] ジェイン・オースティン原作『プライドと偏見』 池袋HUMAXシネマズ4


(写真は、ヒロインのリジー・ベネットを演じるキーラ・ナイトレイ。85年3月生まれだから、撮影時は19〜20歳)


残念ながら完全な失敗作。『高慢と偏見』を127分に収めようというのが無謀なのだ。コリン・ファースがダーシーを演じたBBC版(1995)でも、全体は260分。プロットだけを追って短時間に詰め込むから、とにかく騒がしく、うるさい展開になった。オースティンの作品の特徴である、何ともいえない落ち着いた“品の良さ”が完全に欠落。キッチュで俗っぽい「怒涛の恋愛物語」になってしまった。何より驚いたのは、リジーが絶壁の淵に立って、衣装を風に翻しながら両手を広げるシーンだ。えっ、これは『嵐が丘』だっけ? オースティンの世界はロマン派とはまったく違うのに、一体何を考えているのだろう。


プログラムノートを読んで驚いた。監督のジョー・ライト(33歳)はこれがデビュー作だそうだが、「原作を読んだことがなく、テレビ化されたものも見たことがなかった」。渡された脚本を読んで「感動した」ので引き受けたとある。冗談じゃないよ。シェイクスピアを読んだことのない演出家が舞台を演出するだろうか。『高慢と偏見』は世界文学の中でも、最高の恋愛小説の一つなんだよ。たくさんの愛読者が繰り返し読んで、細部まで覚えているんだよ。リジーは、オースティンその人が、「エリザベスはこれまでの書物に登場した中で一番魅力的な人物だと思います。彼女を好きになれない人がいたら我慢なりません」と手紙に書いている。演じるキーラ・ナイトレイには端正な瑞々しさがあるのに、感情をむき出しにする俗っぽい役作りのせいで、リジーの魅力が吹っ飛んでしまった。


最後の最後、二人の長いすれ違いの後に、ダーシーがリジーにプロポーズするシーンは、物語の圧巻で、原作では、深く静かな喜びに満ちている。中野康司訳から引用しよう。「あなたが僕をからかうようなことはしないと思います。今のあなたの気持ちが、あの四月の時と同じでしたら、はっきりそう言ってください。あなたに対する僕の愛情と願いはまったく変わってはいませんが、あなたの一言で、僕はきっぱりあなたをあきらめ、二度とこのことは口にしません。」(ダーシー) 続くリジーの科白は無い。ただ地の文がこう続く。


「エリザベスはダーシーの苦しい胸の内を察し、早く何か言わなければと思い、たどたどしい調子で答えた。自分の気持ちは、あの四月以来すっかり変わり、今は感謝と喜びをもって、あなたの愛を受け入れることができます、と答えた。・・・エリザベスが目を上げることができたら、彼の顔にあふれた喜びの表情が、いかに彼に似合っているか、見ることができただろう。だがエリザベスは、目を上げることはできないが、彼の声を聞くことはできた。・・・二人はどこへ向かっているかも分らずに歩き続けた。考えることと、感じることと、話すことがありすぎて、他のことはいっさい目に入らなかった。」


あれほど輝かしい会話文で物語を作ってきたオースティンが、物語の最高の急所で、なぜプロポーズを受けるリジーの科白を書かないのか。そっけない三人称の文に変わるのか。二人はなぜ視線を合わせず、ひたすら並んで歩き続けるのか・・・。『高慢と偏見』の読者なら誰でも知っているこのシーンの意味を、監督は少しでも考えたのだろうか? この映画では、ファーストキスこそないが、リジーはダーシーをじっと見つめて、手を握り、頬を寄せて甘え、「冷たい手ね」と余計な科白を言う。かくして、世界でもっとも美しいプロポーズ・シーンの一つは、すっかり駄目にされてしまった。