上野千鶴子『生き延びるための思想』(2)

charis2006-03-04

[読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店)


(写真は『女の平和』。2000年10月、アメリカのサン・ディエゴ州立大学における上演。兵士の巨大なペニスは、戦争暴力のパロディでもある。)


「戦争という暴力」においては、加害者は同時に被害者でもあるという「暴力の弁証法」が、上野の議論の基本線だ。近代市民社会において、「家長」に容認された男から女への家庭内・私的暴力(DV)と、国家により戦争に動員された男性兵士の、承認された公的暴力とは通底しているという「直観」から上野は出発する(p104)。つまり、家庭における男性の力の支配というジェンダー的視点から、国家による男性兵士の動員という戦争暴力を捉える。これはまさにアリストファネス『女の平和』ではないか。夫が妻に暴力でセックスを強要しても、妻は、「自分が感じない」という「非協力」によって夫の快楽を取り消せる。こう語ったリュシストラテは、夫は暴力の加害者であると同時に被害者でもあるという、暴力の弁証法を洞察した。家庭におけるセックスを失った夫たちは、戦争を遂行する「気力」も失い、戦争という暴力も停止する。これが『女の平和』における、セックスと戦争の暴力の弁証法だった。


上野は、やや違った視点からジェンダーと戦争の弁証法を考察する。それは、国家暴力への対抗暴力を遂行する「女性テロリスト」という、例外的な視点に立つことである(p86f.)。パレスチナで自爆した19歳の少女テロリスト。十代の少女は「無力」と「純潔」の象徴である。爆弾を隠し持つ少女は、少女であるがゆえに、敵の警戒心や検問をすり抜け、敵の中枢を爆破する。これは、無力で無垢な「女を武器に」した、国家暴力への絶望的な戦いである。


だが、と上野は自問する。少女テロリストもまた、自爆で死ぬのではないか? 少女こそ、暴力の加害者である以上に、暴力の被害者なのではないか? 上野は、テロリズムにおける「ヒロイックな美談」を決して肯定しない。それは「特攻隊の思想」である。そうではなく、我々はそこに、暴力の悲劇的な弁証法を読み取らなければならないのだ。


「暴力は必ず犠牲者を生む。・・・目的が暴力を正当化することはない。自爆テロに赴く女を前にしたら、あなたならどう言うだろうか? やめよ、生き延びよ、あなたが生き延びる以上に重要な価値など、この世にない、と言えるだろうか?」そして上野は、きっぱりと言う。「 逃げよ、生き延びよ」と(112-4)。本書が『生き延びるための思想』と題される所以である。


自爆テロで犠牲になるのは、自分自身である。だとすれば、暴力の被害者になるのは、まずそれを行使する者自身であると言えないだろうか? 暴力を行使する者は、そのことによって暴力のシステムに組み込まれる。犠牲者が他人であっても、自分自身であっても同じことだ。暴力のシステムに主体化=服従することで、彼/彼女は暴力の犠牲になり、自分自身が被害者であることを通じて他人に対して加害者になる。<殺す者>はいつでも<殺される者>となる。<殺される者>にならないためには、彼らは<殺す者>とならなければならない。国民軍の兵士であれ、革命兵士であれ、兵士とは、まず第一に自己犠牲に合意した者たちの集団ではなかったか。したがって兵士もまた、というより兵士こそ、誰よりもまず、暴力の被害者である。」(113)


上野の考察はまだスケッチだが、ここには、暴力と戦争を捉える重要な洞察が含まれている。これは「特攻隊員の死」や「靖国問題」を考える上でも重要な視点である。「戦争の暴力の弁証法」の核心はどこにあるのか? それは、自分が「殺す者」になるか「殺される者」になるかは、ほんの偶然であり、自分でそれを決めることはできないという「根源的偶然性」である。上野は、永田洋子について、「私がもしそこにいたら? 殺す側にいたかもしれないし、殺される側にいたかもしれない。その想像力によってうがたれた足元の暗渠に、多くの人々は立ちすくみ、長く沈黙するに至った。私も例外ではない」(81)と告白した。戦争の戦場では、「殺す」か「殺される」かは、「ほんの紙一重の差」であり、そこには根源的な偶然性しかない。


人間は、自分の出生や生死を選べない。流れ弾に当たって死んだ隣の兵士に対して、生き残った兵士は必ず、「私があなただったかもしれないし、あなたが私だったかもしれない」と思うだろう。この「根源的な偶然性」は、「私」や「あなた」の存在の根本を規定している。戦争暴力という極限状態で赤裸々になる「根源的偶然性」は、同時に、国家が市民を戦争に動員する論拠を批判する武器ともなる。なぜなら、我々は「ある国に生まれることを選べない」からであり、この「出生の偶然性」が、国家への個人の全人格的帰属や服従を拒む、論拠になるからである。これが上野の戦争論の、二番目の論点である。(続く)