内田樹『9条どうでしょう』(2)

charis2006-04-05

[読書] 内田樹ほか 『9条どうでしょう』
    (06年3月、毎日新聞社)


(ウチダふうに、ちょいワルでセクシーなモンテーニュ? Jean-Yves Pouilloux著『モンテーニュ:私は何を知っているのか?』[Gallimard社]の表紙より)


たとえば、たった今地球にやってきた宇宙人が、歴史の過程をすべて無視して、憲法の条文と自衛隊の存在を見比べたとしよう。おそらく、9条の「戦力を保持しない」という文言と自衛隊の存在は、「矛盾」していると言うだろう。しかし、この「矛盾」には、ある種の歴史的な事情と必然性があるのであって、それを冷静に勘案すべきだというのが、内田氏の論旨である。内田氏によれば、日本人はこの「矛盾」を戦後一貫して受容してきたのであり、一種の「人格分裂」という「病」を引き受けることで、我々は大きな「疾病利得」を得てきた。この「疾病利得」という概念が、内田氏のキーワードである。「疾病利得」とは、「病」になることで病者自身が得るプラスの側面である。このプラスは非常に大きいと氏は言う。


憲法第9条自衛隊は「双子」であり、自衛隊は世界でも有数の規模の軍事力であるにもかかわらず、その軍事力の行使が9条によって制限されており、その結果、「国民の生命、財産の保護」という国家の一番の責務が、戦後60年にわたって見事に実現してきた。これは政治的リアリズムの観点から言えば、稀有の成功である。9条を理由に、アメリカの海外派兵要求に可能な限り抵抗し、自衛隊を日本国土の防衛という、本来の国防の任務に限定することができる。日本人兵士を無駄に死なせないことは、何よりも日本の国益に適ったことである。


「矛盾」を引き受けることにはある種の「座りの悪さ」があることは事実である。だから、この「座りの悪さ」を解消してスッキリしたいという改憲派の動きが出てくる。だが、人間存在の根源が問われる戦争という場で、そもそもスッキリとした気分で、人格分裂を起こさないことは不可能だということこそ、より本質的で重要な洞察である。内田氏は言う。


「殺人について私たちが知っているのは、<人を殺さなければならない場合がある>という事実と、<人を殺してはならない>という禁令が同時に存在しているということである。そして、その二つの両立不可能の要請の間に<引き裂かれてあること>が人間の悲劇的宿命であるということである。矛盾した二つの要請の間でふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片付けてすっきりしたい、話を単純にしてくれないと分らないと彼ら[改憲派]は言う。それは子供の主張である。<武装国家>か<非武装中立国家>かの二者択一しかないというのは子供の論理である。」(P17)


世界有数の軍事力である自衛隊憲法第9条の「矛盾」は、ある意味では、世界でもっとも「大人の国」の論理ではないのか? 我々は、日本が置かれた”歴史的偶然性”をプラスに生かすべきであり、「変わった国」であることをやめて、「普通の国」になろうとすることは、日本に何の利益ももたらさない。「矛盾」に耐え、「矛盾」とともに生きることは、立派な「正解」なのである。