宇都宮大学学生・共同研究『戦後元年』(2)

charis2006-05-14

[読書] 宇大Dialogers『戦後元年 2005―ぼくらが未来を創造するために考えはじめたこと』(金子印刷所、2006.3.26)


(写真は、「悲しみのアテナ」像。靖国問題を、悲しみの感情なしに考えることは、私たちにはできない。)


各章から、気の付いた点をいくつか。本書は、思想的・政治的な「主張」ではなく、勉強したことのまとめが中心だが、その記述からは、調べが進むにつれて、最初の予断が否定されて視野が広がっていく過程がよく見える。たとえば第3章は、日・中・韓・ドイツの歴史教育を比較している(書いたのはTaMさん、Toさんの二人の女子学生)。昨年の中国の反日デモなどから、日本国内には、中国は反日感情を育てるための歴史教育をしているという短絡的な批判がみられた。しかし彼女たちは、各国の教育政策の歴史的な変遷を検討する作業を通じて、「調べていくうちに、よく耳にする一般論は間違っているのではないかと考え始めた。」(p63)


日本の文部省の学習指導要領は約10年ごとに改訂されているが、その内容を検討すると、どの要領も、社会の変化に合わせて、その時々の国家的・社会的な要請に応えようとしていることがよく分かる。だが、韓国や中国の教育政策も同じなのだ。特にここ20年間の両国の教育政策は、近代化・国際化に向けて著しい変化を見せている。韓国が日本の植民地だったこと、中国が日本の侵略に打ち勝って独立を達成したこと。このような大きな歴史的背景はたしかにある。しかし、経済の発展と高学歴化に伴って、両国とも、自国の歴史を国際関係の中で客観的に捉えるように急速に変わっている。「愛国心」もまた、偏狭な「民族史観」から「世界的普遍性へと関連させて認識する」ことに重点が置かれるようになる(p74)。韓国は日本を恨んでいるはずだとか、中国は共産国だからといった一般論では事実が見えないことを、この第3章は淡々と明らかにしている。


第7章には、教育学部の学生らしいユニークな考察が見られる。富山市立・堀川小学校の3年生の「道徳」の授業と類比させて、歴史教育を捉えようというのだ。堀川小では、ゲートボールの練習を一年間やりながら、それについてクラスで話し合うが、その話し合いは、個々の生徒が練習を通じてゲートボールを十分に体験していてこそ、実のある話し合いになる。というのは、自分が体験した経験の内実がないと、教室で他人から聞いた話にすぐ雷同してしまうからだ。歴史意識も同じで、社会的現実の中に疑問や問いを持って探究する姿勢が自分にあってこそ、それを基盤に、既成のさまざまな言説を吟味することができる。自分の基盤がないところでは、歴史認識もまた育たない(p160f.)。


第5章「靖国問題」は、神道靖国神社の歴史を調べただけではなく、2002年12月に福田康夫官房長官の諮問機関が答申した「新しい国立追悼施設を作るべし」という提言を見据えて論じている。ここはもっとも困難な問題だ。答申は「かつての戦争の死者」に加えて「新しい戦死者」を祀るとしているが、これは「誤った戦争」という反省を曖昧にして、国家の遂行する戦争は「常に正しい」という前提に歴史を引き寄せる危険性も持っている。慰霊という行為は感情的になりがちなので、彼らを死なせた戦争を「間違っていた」と言うのは、死者への冒涜だという「正当化論」になりやすい。これでは戦争への反省は不可能になる。


しかし、そのような「新国立追悼施設の靖国化」の危険はたしかにあるが、新国立追悼施設はまったく無意味だとも、簡単には言えない。A級戦犯の合祀という、対連合国の戦争責任と抵触する事態をまず解決すべきだという考えにも一理ある。そして、靖国の「英霊」の大部分は、徴兵された日本国民であり、戦争の被害者なのだから、戦争を「顕彰する」靖国とは違った方式で、彼らを慰霊することこそ必要なのである。そう考えると、相対的に「よりましな」解決としての新追悼施設という選択肢も、一概には退けられない。ここで我々が直面しているのは、近代国民国家が、正しい戦争と誤った戦争の両方の場合において、動員した自国の兵士、相手方の兵士、そして国民の死をどう追悼するかという、根本的なアポリアなのだ。第5章の末尾に、「自分たちは、靖国問題の根本解決を提示することは到底できなかった」(127)とあるが、これはまだ誰も果たせなかった課題である。アポリアに正しく突き当たったという点で、第5章の考察は十分な価値をもっている。


一点だけ、若干の不満を感じたのは、首相の靖国参拝が対外的な政治問題だという場合、中国や韓国の反対という現在の状況だけが強調されていることである。私個人の考えを言えば、たとえ中国や韓国が反対しなくても、首相は靖国に行ってはいけない。それは、対外的にも日本人自身にとっても、加害者と被害者の区別を消して戦争責任を曖昧化することであり、戦争への反省が他律的・受動的になるからである。本書はドイツについてこれだけよく調べたのだから、日本についても、先の戦争をどう捉えるかは、日本人自身の内在的論理に基づくべきだと、明確に主張することもできたはずだ。とはいえ、ゼロから勉強を始めた学生が、ここまで靖国の問題に肉薄したことは、高く評価されてよい。彼らは将来、きっと良い教師になるに違いない。

本書の後書きによると、学生とあまり年の違わないY先生が友達感覚で参加していたそうだ。学生の議論を黙々と聞きながら、もっぱら「みんなのお菓子をつまみ食いしていた」とある。しかし私はそこに、学生の自由な議論を触発するために、一歩退いて耳を傾けるY先生の見識と献身を感じた。