青年劇場『尺には尺を』

charis2006-05-26

[演劇] シェイクスピア:『尺には尺を』 高瀬久男演出・青年劇場公演、紀伊国屋サザンシアター


(写真は、1989年、カナダのキャルーセル劇場公演。イザベラを演じるシュザンヌ・ジル=スミス。)


今月は、8日のアカデミック・シェイクスピア・カンパニの公演と合わせて、『尺には尺を』を二つ続けて見た。この作品はシェイクスピアの中でも「問題劇」と言われ、成功させるのが難しい。この青年劇場公演は、全体を大きく喜劇の方向に引き寄せて、とても面白く見ることができた。観客に若い人が少ないのは残念だが、客席には笑い声が絶えなかった。『尺には尺を』は、全体の構成が不自然で登場人物に共感できず、頑なな「律法主義」「原理主義」が性の倫理問題と絡まっているので、「喜劇」というには笑うに笑えない作品だ。だが、この公演は、これはシェイクスピアが「律法主義」を笑い飛ばそうとした、「底の抜けた」喜劇なのだということを、見事に示せたと思う。


ウィーンを治める公爵は、法律を厳格に適用しなかったので風紀が乱れてしまった。急に厳罰主義に戻しても民衆の反発を受けるので、自分は旅に出ると称して、配下のアンジェロに全権を一時譲り、風紀の建て直し役をアンジェロに押し付ける。そして自分は修道士に化けて、水戸黄門のようにこっそり国情を探り回る。虫のいい、ずるい公爵だ。一方、厳格な律法主義者のアンジェロは、結婚式前に恋人を妊娠させてしまった若者クローディオを逮捕し、婚前交渉=死刑という一度も適用されたことのない法律を持ち出して、彼に死刑を宣告する。


クローディオには、美女で潔癖主義の妹イザベラがいるが、イザベラは修道女になるために修道院に入ったところだった。兄の死刑を聞いて、アンジェロの元に駆けつけ、減刑を嘆願するうちに、清純な娘にムラムラっときたアンジェロは、「お前が大切にしている処女の操を自分に捧げれば、兄を助けてやる」と、交換条件を提示する。驚愕したイザベラは、自分の体を汚して永遠の罪に落ちるくらいなら、兄が死んだ方がましだと、きっぱり断る。イザベラが自分を励まして言う独白:「さあ、イザベラ、操を守って生きるのよ、お兄様が死ぬとしても。お兄様は大切でも、女の操はもっと大切ですもの。」


獄中で兄と面会したイザベラがアンジェロの醜い本性を告げると、何と兄は、「頼む、俺は生きたいのだ」と懇願し、アンジェロの条件を飲むように妹に頼む。驚愕したイザベラの台詞:「まあ、人でなし! 卑怯者! 何てなさけない人なの、あなたは! 妹を辱めて命を得ようなんて・・・、もうお兄様とは思いません! 死んで地獄に落ちるがいいわ!」 イザベラもまた律法主義者なのだ。もしこれが日本の劇だったら、妹は言葉を失って泣き崩れ、ひたすら泣くだけになるだろう。そこに共感も生まれるのだが、イザベラのように正論を振りかざして堂々と反論したのでは、何ともいえない違和感が残る。しかしそこがシェイクスピアの狙いなのだろう。


その後は、ますます不自然な展開になる。修道士に化けた公爵が、小賢しく画策して、イザベラにはアンジェロの提案にイエスと返事だけさせる。そして数年前にアンジェロに婚約破棄されたマリアナという別の女性を、身代わりに行かせる。暗闇でアンジェロは、イザベラと勘違いしてマリアナを抱くが、約束に反して、クローディオの即刻処刑を命じる。しかし獄吏が、たまたま死んだ別人の首を届けるので、クローディオは実は助かる。公爵は突然帰国して皆の前に現れ、アンジェロの悪事は暴かれる。


ところが、である。律法主義者のアンジェロは、「自分は死刑になっても当然」とあっさり罪を認める。すると公爵は、彼をマリアナと結婚させて、罪を許す。そして一番おかしいのは、最後に突然、公爵は皆の前で、イザベラに向かって、「私が愛しているのはお前だ」と、イザベラに求婚する。ここで観客は大笑いする。イザベラは何も言わないが、拒否もしない。修道女になるはずなのに、おかしいではないか! どうしようもなく底の抜けた、目茶苦茶なハッピーエンドによって、シェイクスピアが律法主義の滑稽さを茶化していることは確かだろう。青年劇場の俳優は、ほとんどの役が生き生きとして、とても精彩があった。


難役アンジェロは若い俳優だが、感情を表に出さず、やや硬く、ぎこちないアンジェロだ。だが、これでよいのではないか。アンジェロの「悩み」を表現しすぎると、全体がかえって分かりにくくなるだろう。アンジェロの「提案」は、たしかにイザベラの律法主義をあぶり出す。「婚前交渉に死刑とは残酷だ」と、イザベラはアンジェロを非難したが、それに対してアンジェロは、「自分の貞操を兄の命に優先させるお前も同様に残酷だ」と、イザベラに反論した。律法同士の「応酬」も、「measure for measure」というタイトルに含意されるのかもしれないが、それを喜劇の中にうまく生かすのは至難の技だろう。