田島正樹『読む哲学事典』(4)

charis2006-06-06

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(写真は、1978年3月26日、占拠された成田空港管理塔。3月30日予定の開港は不可能になった。)


田島氏の著作には、アリストテレスフレーゲなどの専門的な議論の合間に、「革命的法廷」「学園闘争」「三里塚闘争」「プロレタリア国際主義」といった、一見文脈を異にする話題が現れることがある。読者はそこに、全共闘世代である氏の青春時代の「こだま」のようなものを聞きとるかもしれない。だが、それらはノスタルジックな回顧ではなく、普遍的な哲学の問題として論じられていることに注意しなければならない。前回見たように、田島氏は、オレステス裁判という「民衆法廷」に、「問題解決による新しい意味の生成」を見出した。「民衆法廷」あるいは「革命的法創造」は、田島哲学の重要概念である。本書の項目「法と革命」から、現代政治における「新しい意味の生成」を見てみよう。


成田空港建設をめぐる三里塚問題は、十数年前に隅谷三喜男氏ら学識経験者を中心として、「公開シンポジウム」という場が設けられ、ようやく政府と反対同盟の話し合いが開始された。この「公開シンポジウム」という形態は、日本の政治制度のどこにも規定されたものではなかったが、ここでの問題解決が公共的に認知されれば、それは記憶され、規範的な力をもつようになるかもしれない(p214)。これは、いかにも小さな話のように見えるかもしれないが、「法=規範の誕生」に関わる根源的な洞察である。田島氏は、「実定法によって授権されていないこのような法創造を、革命的法創造と呼ぶことができるだろう」と言う(215)。「革命」というと、古い権力が打ち倒される表層ばかりに気を取られるが、その本質は、すでにある制度や実定法が問題解決能力を失い、それを超えたところに、新しい「政治的公共性」を創造しながら問題の解決を追求することにある。


田島氏は、三里塚問題の「公開シンポジウム」のみならず、「B.ラッセルのヴェトナム戦争裁判や、最近の従軍慰安婦戦争犯罪民衆法廷など、各種の民衆法廷の試みも、アテナイ民衆法廷の遠いこだまなのである」(219)と言う。たしかに我々は、各種法律(実定法)や各級裁判所だけを、「正規の」司法と考えがちである。だが、法の創造とは、国家の立法行為で終わるものではなく、次々に生み出される裁判所の判例こそ、法の実質的な適用であり、創造なのである。裁判官は、判決のたびに法を創造する。


しかし法創造は、すでに存在する実定法の権威の内部でしか生じないわけではない。現代社会に発生する複雑なコンフリクトを、既存の司法や政治制度がうまく解決できるとは限らない。むしろ解決が追いつかないというのが現状であろう。たとえば、司法制度は硬直化しがちであり、現に、「裁判員」という「民衆裁判」的な要素を一部取り込んだ改革が試みられている。問題解決は、既存の制度の内側だけでは不可能であり、むしろ多様な仕方で試みられるべきものである。その中で、問題解決の先鞭をつけたものが、評価され、記憶され、規範として権威をもち、法として制度化されてゆく。これが「新しい意味の生成」であり、「つねに批判的公論に公然とさらされていることこそが、法と司法の権威を高めるのであり、法の実質的源泉は、あくまで公共的問題解決のケースの記憶と、それを認定する公論の中にこそ存するものである。」(220)


田島氏の「革命的法創造」の議論は、「法=規範の誕生」をめぐる重要な洞察を含んでいる。我々は通常、社会契約説によって「法=規範の誕生」を基礎付けるが、社会契約説には「原始契約」という一種のフィクションが含まれており、それのみでは、現実に生じる「法=規範の誕生」を完全に説明するわけにはいかない。むしろ、人間の悩みながらの試行錯誤の中から、偶然、問題解決に成功したケースが、広く認知されて、規範として権威をもつ過程こそが、注目されるべきなのだ。この意味で、政治と法は密接に絡みあっている。「公共性の次元が、幸運な偶然によってかろうじて達成できた稀有な遺産であることを忘却し、政治を法創造につなげる道を閉ざす」ことは、政治に暴力を引き入れることである(209)。


田島氏は、「法=規範の誕生」という場面を正確に見据えるために、「権威そのものを、別の権威によらず、ゼロから打ち立てる」(217)という根源的事態を捉えようと尽力する。そこでは、「創造」の「偶然性」を正しく理解することが必要である。「新しい意味の生成」は、あらかじめ計算したり意図したところからは生まれない。この点で、カントが『判断力批判』で述べた「美」の在り方、すなわち「目的なき合目的性」に似たところがある。「新しい意味の生成」を「美」とオーバーラップさせるところに、私は田島氏の哲学の大きな魅力を感じるが、これはまた改めて論じたい。(本書のコメントは、今後、2〜3ヶ月にわたって断続的に書いてゆく。)