入不二基義『ウィトゲンシュタイン』(1)

charis2006-06-12

[読書] 入不二基義ウィトゲンシュタイン』(NHK出版、5月30日刊)


(写真は、ガブリエル・キド氏。思索する著者にいつも同伴する哲学猫。)


入不二氏の新著が刊行された。本の全体像についてはアマゾンに書いたので、ここでは本書の第1章、すなわち『論考』における「独我論」について紹介したい。著者は、「いわゆる独我論」との対比において、「ウィトゲンシュタイン独我論」を明確にする。「いわゆる独我論」は、「世界は、人も物もすべて、私の心の中に存在する」と考える。それに対して、「素朴な実在論」は、「いや、<そう考える私>自身、やはり世界の中に存在する一人にすぎない」と思い直す。それに対して「いわゆる独我論」は、「いや、そこで言われる<世界>も、やはり私の心の中の存在ではないか」と反問する。再び「素朴な実在論」は、「いや、そう考えてみても、<そう考えてみた私>自身が、再び世界の中にいるのを見出してしまう」と答える。このように、「私」と「世界」がそのつど相手の外側に出ることを繰り返すだけで、問答は終わらない。これが、「いわゆる独我論」と「素朴な実在論」の「相互反転」である(p28)。


ウィトゲンシュタインによれば、このような相互反転が生じるのは、「私の心」を何か世界の内部にある「もの」のように考えるからであり、これは誤っている。「私の心」は、世界の光景の一部として、世界の中に描き出されることはできない。それはちょうど、一枚の絵を描く視点そのものは絵の中に描き込めないのと同様である。たとえば、一枚の写真には、それを撮ったカメラのレンズの決まった位置が一つ存在するが、それは写真の外部にあるから、レンズが写真の一部に写っていることは決してない。つまり「視点」は、絵や写真の中に、その光景の一部として描き込まれることはないのだが、しかしある意味では、その絵の全体に「浸透している」。なぜなら、その絵は、まさにその視点から描かれているのだから。このような「視点」に似たものが、「私」であり、ウィトゲンシュタインによれば、こうした「私」は、世界の中に「語られることはできず、示されるだけである」。


では、「私」をそのように捉えたとき、「独我論」はどうなるか。もはや入れ子のように世界と大きさを競いながら相互反転することはない。ウィトゲンシュタインは、「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」と述べた。なぜ言語なのか? ここが問題の急所である。入不二氏は、空間的に「私の限界」を示すことはできず、「限界は言語においてだけ引くことができる」と言う(p61)。たとえば、空間的な広がりを考えた場合、「空間がそこで終わる限界」を考えることはできない。その「限界」の向こう側にもやはり「空間」があるからである。それに対して、言語に関しては、「有意味な領域」と「無意味な領域」の間に境界線を引ける。そして、「有意味な領域」とは、言語が「何かを語ることができる」領域、すなわち「像を作ることができる」領域、分かりやすく言えば、ある記号(=意味するもの)がその対象(=意味されるもの)をもつという二項関係が成立する領域である。私の思考も、私によって思考される世界も、ともにこの「有意味な領域」とぴったり重なる。これが、「ウィトゲンシュタイン独我論」なのである。


だが、入不二氏によれば、ウィトゲンシュタイン独我論にも「ほころび」がないわけではない(p64)。それは、「この言語(私が理解するただ一つの言語)の限界が、私の世界の限界を意味する」という彼の言葉に含まれる、「この」言語、「ただ一つの」言語という表現の曖昧性である。なぜ、「有意味の領域」を形成する、私の「この」言語が「ただ一つの」言語なのか、この「ただ一つ」という在り方は、当の言語において「語られない」だけでなく「示されることもできない」のではないか。これが、ウィトゲンシュタインに対してなお残る、入不二氏の疑問である(p66)。[続く]