表象文化論学会

charis2006-07-01

[学会] 表象文化論学会第1回大会 7月1、2日 東大教養学部


(初めて見るナマ浅田氏は、まったくこんな感じの若々しい人でした。『ニッポン解散』を出版したダイヤモンド社HPより近影。)


学会員ではないが、「人文知の現在」(浅田彰氏と松浦寿輝氏のトーク)と劇団チェルフィッチュ他のパフォーマンスを見てきた。会場の駒場18号館は高層の新館で、正門から見ると時計台の後方に聳える。新館が増えると、時計台は"埋もれる"わけだ。それはともかく、トークの浅田発言は面白かった。以下にメモ。


人文知が活性化するのは、他国の文化が苦労して移入され翻訳される場合だ。古くは漱石の"苦悩"が有名だが、20世紀には、ナチスに追われた亡命知識人が、アメリカにおいてヨーロッパ文化の新しい変容をもたらした。フランクフルト学派だけでなく、ハリウッドの映画監督にもドイツ人がいた。そして、フランス現代思想ハイデガーというドイツ的なものと格闘した結果だし、フーコーデリダの思想はさらにアメリカに移されて新しい形で生きている。このような「翻訳」と「交通」が人文知を支える側面がある。


亡命知識人に代表されるように、これまで人文知が活性化した「創造の現場」は、電子情報が氾濫する場ではなく、身体がモノや他者と格闘する「身体知」の要素が含まれていた。たとえばフーコーは、スウェーデンのウプサラの図書館に篭って、ヨーロッパ医学の古文書を読み抜くことによって『狂気の歴史』を書いた。ところが、現代のインターネットにおける電子情報の瞬間的アクセスは、身体知の格闘による翻訳と交通という契機を消滅させる。それは、ある知が成立した歴史的・地域的な背景を見えにくくするので、瞬間的アクセスによって、あたかも「事柄そのものに向き合っている」かのような錯覚を我々に与える。こうした状況下で、人文知の創造がどうなるかはまだ分からない。


電子情報の普遍的流通によって、「同質的で分かりやすいもの」が世界中に溢れることになる。これとパラレルな現象として、吉本ばなな、奈良良智、日本のアニメなどの「幼児的キャラクター」が世界中に売れている(そういえば「ハローキティ」も)。浅田としては、「売れるんなら、それでいいじゃん」という立場だが、これを「日本文化の創造的発信」のように過大評価しないことが大切だ。世界中がある意味で「幼児化」しつつあるという認識がないと、人文知の創造と見誤ることになる。