田島正樹『読む哲学事典』(5)

charis2006-07-10

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(挿絵は、古代ローマの将校である百卒長(=百人隊長)。息絶えた十字架のイエスを前に、「本当に、この人は神の子だった」と述べたと、福音書は記す。)


『読む哲学事典』のコメントを再開する。9月まで折に触れて書いてみたい。今日は、「本質と時間」の項。田島氏はアリストテレスの「運動」概念の検討から始める。時間は、何らかの運動(変化)に即して存在するが、「運動」には二種類あり、(1)運動の「意味」がまだ未達成、未完了ゆえに運動するもの、(2)運動の内に運動の「意味」をすでに含んでいる、完全現実態としての運動。(2)はアリストテレスが「テオリア」の本義を強調する重要な概念である。「人は、ものを見ているとき、すでに見ていたのだ」とあるように、完全な行為は、それが運動であっても自己完結しており、過去形=本質をすでに含んでいる。「見る」の他に、「思慮する」「思考する」「よく生きる」「幸福に暮らす」などが挙げられている(『形而上学』第9巻)。これは、他の目的の手段には絶対ならない「それ自体で価値あるもの」を確保するために、不可欠の考察である。たとえばオペラを見るとき、何か他の目的のために見るのではなく、オペラを見ること自体が楽しいから見るのである。これが「見る」という運動の本質。


それに対して、(1)の運動は、「歩く」「学習する」「建築する」のように、「未達成」であるがゆえに運動が存在するので、その「本質」はまだ全部が顕現していない。アリストテレスでは、(1)は(2)に比べてレベルの"低い"運動と考えられているが、田島氏はそこに、「存在の意味が時間的に展開するゆえに、運動の意味が、時間を遡及して語られざるをえない」(p224)という、新たなモデルを見出そうとする。つまり、「存在の意味は時間を遡る」ことが、重要な洞察なのである。(私自身は、「存在の意味は時間を遡る」という田島氏の強調される部分は、アリストテレスの言う(2)の"困難さ"あるいは"欠如態"として捉えるべきではないかと思うが、田島氏を誤読しているかもしれないので、この点は今は措く。)


「存在の意味は時間を遡る」ということは、未来と過去の関係を考えるキーポイントである。未来の出来事はまだ存在しないから、個体指示ができないにもかかわらず、我々は未来の出来事について、"あたかも個体指示が出来るかのように"語る。「反復する運動とは違って、現在の延長として理解できないものこそ、新しい意味をもたらす出来事の生成、すなわち意味の生成であるとすれば、・・・いまだ意味が生成していない現在において、何が未来を思惟可能にしているのか?」(228)


ここで参照されるのが、「救世主が現れる=イエスの誕生」という出来事である。ユダヤ民族は長い間「救世主が現れる」と未来に期待していた。しかし、「救世主が現れる」といっても、空から救世主が「我こそは救世主なり」と宣言して降りてくるわけではない。また、多くの民衆は、ユダヤ民族を救う優れた軍事指導者のようなものを想像していた。どうして、未来に生まれてくるであろう一人の人物が、期待されていた当の救世主であると分かるのだろうか? 実は、ここがキリスト教の凄いところなのだが、現実には、マリアというごく普通の人間の女が赤ん坊を産むという、どこにでもありそうな出来事しか起きなかったのである。その赤ん坊が「救世主である」という"意味を顕現する"のは、その赤ん坊が成長し、活動し、既成教団と衝突して最後は処刑されるという、一人の"弱い男"が苦難の人生を"終える"ことによってであった。これが百卒長の「本当に、この人は神の子<だった>」という過去形の発言なのである。


田島氏は、ここに未来としての未来の本来のあり方を読み取る。このような本来的な未来は、すでに知られたことの反復としてではなく、意味そのものが現在は与えられていないのに、「それを解かれるべき問題として受容する」という人間の態度、すなわち、「その謎の意味を十分には理解しないままに、そして自分がそれを知らないということを理解しながら、なお、それを希望として、いずれ解かれるべき問題として受容する」(231)ことである。反復される未来が「期待」であるのに対して、意味の生成という本来の未来は「希望」と呼ばれる。ここには、未来の本性について非常に大切なことが言われている。


「将来に到来するものとしての超越性、現在のものに還元できない超越的実在性の余地を残すためには、未来の出来事に対して反実在論をとることが不可欠である。」(231) ここが問題の核心であると同時に、また困難な地点である。本来の未来は「超越的実在性」を持つのだが、それを哲学的にうまく位置づけるためには、「未来の出来事に対して反実在論をとることが不可欠になる」と田島氏は述べる。この主張の含意をもう少し明らかにしてみたいが、ダメット『過去と真理』が似たような問題意識をもっているので、しばらく後になるが、それを田島氏の論点と比較してみたい。