上野修『スピノザ』

charis2006-08-06

[読書] 上野修スピノザ −「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版、06年7月)


(写真は、スピノザ像)


(実家の父を介護していた母が倒れて入院したので、少々ブログの更新が遅れています。)
「シリーズ・哲学のエッセンス」の『スピノザ』が刊行された。焦点を『神学・政治論』に絞った興味深い本である。『神学・政治論』は、『聖書』を丁寧に分析した本で、ある意味では『エチカ』以上に面白い本ともいえる。私は大学院生時代に、あの少し大きな古い活字の岩波文庫で読んだときの感激を忘れられない。『聖書』を、「聖なる文書」としてではなく、きわめて冷静に一つのテクストとして分析し、各文書の成立の前後関係や、個性豊かな預言者たちのキャラを縦横無人に論じるスピノザの醒めた眼差しに感心した。


『神学・政治論』は、1670年に刊行されると、ユダヤ教キリスト教などの宗教保守派はもとより、もっともリベラルであったデカルト派からも、「前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」として憎悪の的になり、禁書にされた。だが『神学・政治論』は、読みようによっては、宗教を深く肯定しているようにも見える不思議な書物である。宗教は「迷信」であるなどとは、スピノザは一言も言っていない。聖書の根本命題は「隣人を自分のごとく愛しなさい」という一点に尽きるのであって、これは一切の理屈抜きに絶対に正しいとスピノザは言う。にも関わらず、なぜ『神学・政治論』は、同時代人をこれほど怒らせたのだろうか。


上野修氏によれば、『神学・政治論』の画期的意義は、宗教と哲学を完全に無関係なものとして、相互不干渉の原則を打ち出した点にあるという。『聖書』には、ありそうもない超能力や予言の話がたくさん出てくるが、当時のリベラルなデカルト派は、何とかそれを「比喩」として合理的に解釈し、自然科学や哲学の認識と矛盾しないように解釈しようと努力した。だがスピノザによれば、そのような「解釈」によって『聖書』と真理を両立させようとするのは、宗教の本質を理解しない誤った態度なのである。『聖書』は、「隣人を自分のごとく愛しなさい」という「普遍的信仰の教義」を語るにふさわしい語法を持てばよいのであり、科学書でも哲学書でもない。上野氏によれば、『聖書』の語法は、「真理条件ではなく、主張可能性条件の問題である」(p47)。


そのような観点からすると、『聖書』の語り方の必然性が良く理解できる。たとえば「神は火である」という文章は、何か特別の「秘義」があるわけではなく、古代のヘブライ語の語法を調べてみれば、「火」は「怒り」「嫉妬深い」という意味も持つのだから、少しも不思議ではない。スピノザは『ヘブライ語文法提要』という本も書き、テクストをそれが書かれた当時の語法に即して、いわば言語学的に正確な「読み」を提唱したわけだ。今日言うところの、テクスト・クリティークや「系譜学的解読」を『聖書』について初めて行ったのが、『神学・政治論』なのである。「奇蹟」も、民衆に「そう見えた」のであれば、それはそれで結構な話だから、ケチをつける必要はないし、無理に自然科学的議論をこじつける必要もない。「奇蹟」は、ユダヤ民族が自らの「幸運な出来事」を喜ぶところにその由来があるのに対して、「迷信」は、何事もうまくいかず国家が危機に瀕したときに出てくる(p92f)。つまり、「奇蹟」はプラスの価値を持つ表象であるが、「迷信」はマイナスの表象なのである。


『旧約』に登場する多くの預言者たちは「無知」な人々であったという、スピノザの見解も面白い。たとえば預言者モーゼは「無知」だったからこそ、策略や欺瞞とはまったく無縁で、あれだけの力を発揮できたのだと、スピノザは言う(p91)。モーゼは、智謀に富んだアレキサンダー大王とは、まったく異なるキャラの持ち主なのだ。ヘブライ神政国家の内に無意識に存在した、素朴で無垢な「社会契約」的契機を、スピノザは当時のオランダの民主制擁護と重ねていたという、上野氏の指摘には、目を開かれる思いがした(p66f)。