『聖書』を読む(2)

charis2006-08-18

[読書] 『新約聖書福音書』(塚本虎二訳、岩波文庫


(右挿絵はコレッジオの、左下はフラ・アンジェリコの、どちらも「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」。マグダラのマリアに園丁と間違えられたイエスの、鋤が描かれている。前回の日誌の最後の話の絵。)


今日は『ヨハネ福音書』から「聖霊」について。キリスト教の「三位一体」の教義は、「父なる神、子なる神(イエス)、聖霊」の本性における一致を説くが、この「聖霊」というのが今までよく分からなかった。神やイエスの他になぜ「聖霊」が必要なのか、「聖霊」とは一人なのか多数なのか(天使のように)、多数ならば「三位一体」はどうなるのか? 色々と疑問が浮かぶ。だが、『ヨハネ福音書』14〜16章は「聖霊」概念の起源を示しており、少し理解が進んだ。


ヨハネ』14〜16章は、きわめて切迫した雰囲気に満ちている。イエスの処刑の少し前、激しい動揺にかられて絶望する弟子たちを、イエスが必死に説得するシーンを『ヨハネ』は詳細に描き出す。イエスの科白を塚本訳から引用しよう。


「あなた達はみな別れを悲しんでいるが、本当に私を愛するなら、私の掟を守り互いに愛しなさい。そうすれば私も父上に願って、私に代る他の弁護者(パラクレートス)を送っていただき、いつまでもあなたたちと一緒におるようにしてあげる。これは真理の霊である。この世の人たちには見えもせず、分かりもしないから、これを受け入れることができない。しかしあなた達にはこの霊が分かる。いつもあなた達のところを離れず、また、あなた達の中におるのだから。私は父上の所に行くけれども、あなた達を孤児にはしておかない。」(14章)


「父上が私の名でつかわされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、また私が言ったことをすべて思い出させるであろう。」(同)


おそらくここが、「聖霊」についてきちんと説明した最初の箇所ではないだろうか。「聖霊」とは、ここでは「真理の霊」とも言われているが、要するに、イエスが死によって地上から姿を消すことに耐えられない弟子たちに対して、イエスの「代わりとして」派遣される「弁護者」である。この「弁護者(パラクレートス)」というギリシア語を、ラテン語訳聖書はそのまま「Paraclitus」と音訳し、ルターは「Troester=慰める者」と訳し、英訳聖書では「Counselor=助言者」と訳されている。


エスは生前にたくさんの奇蹟を行ったが、あまりに早いイエスの死を前に、弟子たちもまだ彼が神の子であることに半信半疑なのだ。口では「あなたが神の所から出てこられたことを、今信じます」と言う弟子たちに対して、イエスはこう言い返す。「今信じるというのか。見ていなさい、みなちりぢりになって自分の家に帰り、私を一人ぼっちにする時がくるから。」(16章) 「まだたくさん言うことがあるが、今は言わない。あなた達には今それを理解する力がない。真理の霊が来るとき、彼があなた達を導いて一切の真理を悟らせるであろう。」(同)


エスが「人の子」として地上に存在するのは、あまりにも短期間であり、しかも歴史上ただ一回しか起きなかった。このことが「聖霊」を必要とした真の理由である。キリスト教の凄いところは、神がイエスという「人間になる」ところにある。他の多くの宗教において、神は天から「降臨」はするが、大工ヨセフとその妻のマリアが赤ん坊を出産するというような、文字通り「人間と同じ生まれ方をする」ことはない。母親の腹を人並みに痛めさせてこの世に生まれ、そして、自分を救うことも出来ず磔になるイエスは、人間の無力さを徹底して体現しているように見える。そうであればこそ、そのような教祖の中に真理を読み取ろうとする弟子たちの試練は、たとえようもなく困難なものだったはずだ。そして、その困難な試練の中に、キリスト教の強さがあるのだろう。もしイエスギリシアの神々のように不死ならば、「聖霊」はいらない。イエスが死ぬことと「聖霊」の存在は表裏一体のものだ。このように考えると、「人間に殺されて死ぬ神」というイエスの物語を創造した、福音作者たちの偉大な想像力に脱帽しないわけにはいかない。