『聖書』を読む(3)

charis2006-08-21

[読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫


(挿絵は、英国ロマン派の詩人ブレイクの描いた「ヨブ」。サタンに苦しめられるヨブ。)


ヨブ記』を25年ぶりに(?)再読した。『ヨブ記』は、旧約聖書中もっとも重要な作品の一つだが、解釈が大きく分かれる問題作でもある。その解釈の根本的対立点について考えてみたい。『ヨブ記』は、真ん中の長い詩文を、前後の二つの散文が挟む「枠構造」をしている。まず冒頭の散文であるが、それは神ヤハウェとサタンの対話であり、ゲーテの『ファウスト』の原型である。ヤハウェが「正しき人ヨブ」を褒めたのに対して、サタンが「ヨブが神をうやまうのは彼の人生が順調だからにすぎない。ヨブが不幸のどん底に落ちれば、神を呪うにきまっている」と反論する。神ヤハウェは、「じゃお前やってみろ。ヨブを不幸のどん底に落としてごらん」ということになり、サタンは、ヨブのすべての息子たちを殺し、ヨブの全財産を破滅させ、ヨブの体を悪性腫瘍で一杯にした。ヨブは苦しさのあまり体をかきむしり、灰の中をころげ回るが、神を呪う言葉は吐かない。ここまでがプロローグとなる散文の部。


次に詩文の部。友人たちがヨブを見舞いに来て、ヨブの不幸や病気はヨブに罪があったからこそであり、神は因果応報の原理に忠実であるから、ヨブは自分の罪を神に謝罪すべきだと、ヨブを説得する。しかしヨブは、自分は正しく生きてきたので、絶対に罪を犯していないと頑張る。そして、なぜ私が不幸に会うのか理解できない。神ヤハウェは、この私の問いに答えるべきだと、神に挑戦する。ヨブは言う、「見よ、ここに私の判こがある、全能者よ、私に答えよ。」(31章)


すると驚いたことに、人間の前に姿を見せないことを原則とする神ヤハウェが、ヨブの前にやって来たのだ。「ヤハウェは嵐の中からヨブに答えて言われた」(38章1)。しかし、神ヤハウェの答えはとても奇妙なものだった。「なぜ正しい人が不幸に会うのか」というヨブの問いには答えずに、ひたすら自分が創造主であることを自慢する。「天地創造をしたのはこの私だ、お前には出来ないだろう。創造主の力はこんなに凄いのだ」と、延々と創造の例をあげる。特に奇妙なのは、ヤハウェが自分の創造の頂点として「カバとワニ」を自慢することである。カバがいかに逞しい動物であるか、ワニがいかに獰猛で恐ろしいか(「その威光の前に神々も恐れ、肝をつぶしてひれ伏す」41章17)、どちらも私が創ったのだと、ヤハウェは誇らしげに言う。


ヨブはすっかり恐れをなして、ヤハウェにこう答える。「私にわかりました、あなたは何でもおできになる方、どんな策をも実行できる方であることが。それなのに私は分かりもしないこと、知りもしない不思議について、語ったことになります。私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵灰の中で悔い改めます。」(42章全文) ここでヨブが、「私の眼があなたを見た」と言っていることは重要である。ヤハウェは通常その姿を人間に見せないからである。


そして、最後に散文の部が来て『ヨブ記』は終わる。神はヨブに再び財産を与え、老人のヨブには次々と子が生まれ、ヨブは140才まで幸せに生きたというハッピーエンド。


以上が『ヨブ記』の骨子だが、最後の散文の部や中央の詩文の一部は後世の加筆であるとする研究史もあり、テクスト的には謎が多い。しかし、成立史をめぐる論争はともかくとして、私には、『ヨブ記』の中心主題そのものに何とも言えない違和感を覚える。岩波文庫版訳者の関根正雄氏は、わが国のキリスト教学の泰斗であり、信頼できる専門家であるから、まず関根氏の註や解説を見よう。神ヤハウェの自慢する「カバやワニ」は普通のカバやワニではなく、創造神話における原初の動物の比喩であるという(p214)。ヤハウェは自分の創造世界について、「カバとワニに対する愛とユーモアに満ちた語りかけをもってヨブの心の傷をいやしている」(p226)。なるほど、そうなのかもしれない。しかし、では神ヤハウェが、「なぜ正しい人が不幸になるのか」というヨブの問いに答えていない点は、どう解釈されるのだろうか。


関根氏によれば、「(因果応報による利益を期待するのではなく)神のゆえに神を信ずるのでなければ、本当に神を信ずることにはならないのであり、そのために苦難が神から与えられる」(225)というのが、『ヨブ記』の核心である。ヨブが神に挑戦すること自体が、「知らず知らずのうちに自己を創造世界の中心に置いて、すべてを自己を中心に見、神をも批判の対象にする」(226)という傲慢に陥っている。だから神ヤハウェが、ヨブに対してもっぱら自分の世界創造を語るのは、決して自慢ではなく、創造世界の中心者は自分であることを示して、ヨブの傲慢を戒めているのだ。これによって、ヨブは謙虚に改心し、不遜な問いを発した自分を悔いて、ヨブは新たに新生する。以上が関根氏の解釈の骨子である。おそらくこれがキリスト者の正統的な解釈であり、筋の通った見解であると私も思う。


しかし、それでも釈然としない点が残る。それは、そもそもヨブが不幸になったのは、神ヤハウェがサタンと安易な賭けをしたからではないのか。もし「義人ヨブ」に自信があるならば、最初からサタンに「いやそんなことはない。ヨブは正しい人間だ」と答えればすむことで、わざわざサタンにヨブを苦しめさせて、ヨブを「試す」必要があったのかどうか? ヤハウェがサタンに「試みさせた」ということは、ヤハウェ自身がどこかでヨブを信頼しきれていないからのようにみえる。とすれば、ヨブのように正しい人をも疑う神ヤハウェとは、異常に猜疑心の強い神ということになる。苦しめられてもヨブは決して神を呪ったりせず、ただ神に「問いかけた」だけだ。それが傲慢なのだというのも分からないではないが、しかし公平に言って、ヨブの苦しみを作り出した原因はヤハウェの賭けにあるのだから、ヤハウェはもう少し誠実に答えるべきではなかったか。話を世界創造に持っていくのは、ヤハウェ自身の責任を隠蔽することにならないのか。


最後のハッピーエンドの部分の有無も、この問題に効いてくる。もし神によるヨブの幸福の回復が後世の加筆にすぎず、本来、ヨブはヤハウェに屈服して不幸のまま死ぬのであれば、ずいぶん苛酷な物語になってしまう。しかし逆に、ヨブの幸福の回復は本筋であり、最初からあったのだとしても、それがヨブが改心したことに対する褒章であるならば、ヤハウェは完全に因果応報の水準で対応したことになる。応報思想を超える地平を開示するという『ヨブ記』の主題と整合的なのだろうか。


以上のような疑問は、あまりに人間中心的すぎて、神ヤハウェはそのようなものではないというのが、正しい答えなのかもしれない。しかし、徹底して人間中心的に『ヨブ記』を読むことも可能であり、そのように読んだ人として、精神分析で有名なC.G.ユングがいる。ユングの読みは、キリスト者の読みと真っ向から対立するが、きわめて興味深いので、次回に紹介したい。