『聖書』を読む(4)

charis2006-08-23

[読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫


(挿絵は、同じくブレイクの描いたヨブ。)


C.G.ユングの『ヨブへの答え』(原書1952)は非常に面白い。邦訳は二種類(野村美紀子訳/ヨルダン社林道義訳/みすず書房)。ユングは、神を「集合的無意識」として、すなわち、ある時代の民衆の心の無意識的な働きの対象として捉える。神は物理的事実としては存在しないが、心理的事実としては、十分に実在的である。つまり、神を一種の社会心理学的対象と見るわけである。すると、「神」は決して不変の対象ではなく、歴史的に変容する心理的事実の問題になる。


そのように見た場合、『ヨブ記』は、ユダヤキリスト教における神概念の転換を予告する決定的な位置にある。つまり、無意識のレベルに根ざす荒々しい怒りの神であったヤハウェ神は、人間の意識が高まるにつれて、普遍的な愛の神であるキリスト教の神に変容を余儀なくされる。その転換点を象徴するのが『ヨブ記』におけるヨブとヤハウェの対決であり、『ヨブ記』は、ヤハウェがヨブを力ずくで屈服させたように見えるけれど、実際は、ヤハウェはヨブに敗北したというのがユングの見解である。ユングは言う、「ヨブはヤハウェより道徳的に上に立った。この点では、被造物が創造主を追い越したのである」(みすず版、p68)。


「被造物が創造主を追い越す」などということが、なぜ起きたのであろうか。ヤハウェは世界の宗教でも珍しい、「無から世界を創造した」神である。これほどの神であれば、その全能の力と知恵は絶大だと思われるかもしれないが、ユングによれば、そうではない。「<世界創造主>が意識的な存在であるという素朴な仮定はゆゆしい偏見と言わざるをえない。なぜならその仮定は後に信じがたいほどの論理的な矛盾を生み出したからである。・・・それに対して神が無意識であり無反省であると仮定すれば、神の行為を道徳的判断の対象とせず、善なる面と恐ろしい面とを矛盾とは見ない見方が可能になる」(p38)。これはなかなか面白い指摘だ。「無からの創造」を行ったヤハウェは、我々の予想とは違って、無意識で、無反省で、知恵を欠いた神なのである。


ユングによれば、『旧約』におけるヤハウェの「予想もつかない気紛れや破壊的な怒りの発作は昔から有名であった。彼は嫉妬深い道徳の番人として知られ、・・・彼の独特の人格は古代の王にそっくりで・・・、人間の不実な心と密かな思いとを不信の目で探り出そうとする」(p18)。たしかに疑い深いヤハウェは、サタンにヨブを「試させ」た。精神分析家としてのユングの判定によれば、「このようなヤハウェの性格を判断すると、それは客体によってしか自分の存在感をもてない人格に相当することが分かる。主体が自己反省せず、したがって自分自身への洞察を持たないときには、客体への依存は絶対である」(p21)。「無からの創造」を行った神は、それが取り柄だとすれば、「客体によってしか自分の存在感をもてない」神であるともいえる。ヨブの前に現れたヤハウェは、自分が創造した客体をいちいち列挙して創造主であることを自慢することしかできなかったが、これによってヤハウェは、自分が「客体によってしか自分の存在感をもてない」人格であることを証明してしまった。


圧倒的に強い力を持つ創造主ヤハウェも、反省的意識を欠いている点で、大きな弱点をもっている。それを明らかにしたのが、弱い人間であるヨブである。なぜ被造物ヨブが、創造主ヤハウェを追い越すことができたのか。それはヤハウェにない自己反省の意識をヨブが持つからである。「力ある者に対して小さく弱く頼りないために、人間は、すでに示唆したように、自己反省に基づいて意識がその者よりは少しばかり鋭くなっている。つまり人間は生きていくためには、乱暴な神に対する自らの無力をつねに意識していなければならない。神の方はこうした用心を必要としない。神は自分が障害に出会うことがないからである。」(p26)


では、『ヨブ記』で「被造物に追い越された」創造主ヤハウェは、そのまま敗退したのだろうか。そうではない。人間に追い越された神は、反省して、「人間にならなければならない」と考えた。つまり「神が人間になる」というイエスの誕生である。ユングは、『ヨブ記』から『新約』までの数百年間に位置する、『ソロモンの箴言』『シラクの息子イエスの知恵』『エノク書』などの文書を通じて、「神の息子イエス」の先駆的形態が生まれつつあることに注目する。「神の息子」が生まれるためには、「母」がいなくてはならない。男性神ヤハウェだけでは、「神が人間になる」ことはできない。ヤハウェに子が生まれるためには、女性性が準備されなくてはならないが、『ソロモンの箴言』に登場する「ソフィア(=知恵)」という女性名こそ、実はヤハウェの妻であるべき女性性の神話的形象であるというのが、ユングの説である。


だが、男性性が過剰であったヤハウェ神をもとにしたユダヤキリスト教には、実際にはヤハウェの妻が登場することはできなかった。それを代償するのが、「イエスの母である人間マリア」であるが、マリアは「聖母マリア」でもある。ユングによれば、1950年にローマ法王が出した「マリア被昇天」の教義によって、父なる神の妻がついに天上にその位置を占めたという。『ヨブ記』に始まった神の変容は、2500年かけて完成した。何ともスケールの大きな話ではないか! また、無意識の神ヤハウェキリスト教の愛の神に変容したあとも、無意識そのものはなくならないので、そのような無意識における荒々しい暗黒の神が噴出したのが、『ヨハネの黙示録』であるとする。このあたりのユング説は、あまりに面白すぎるので、慎重な吟味が必要かもしれない。