土井隆義『個性を煽られる子どもたち』

charis2006-09-09

[読書]土井隆義 『個性を煽られる子どもたち』
(2004年9月刊、岩波ブックレット


(挿絵は、ラ・トゥールの「マグダラのマリア」。じっと自分を見詰めて「私探し」をしているのだろうか?)


[8月末に父を亡くし、少し身辺が忙しかったので更新が遅れました。] 新刊ではないが、優れた本なのでコメント。著者は、’60年生まれの社会学者で、筑波大学教授。最近の子供から若者にかけての、「自分らしさ」の意識とコミュニケーション問題を分析。70頁のブックレットだが、中身は濃い。ポイントをノートすると、以下のようになる。


「現代の子供たちは、大人も驚くほどの高感度な対人アンテナをつねに張り巡らしており・・・、フィーリングの合う相手とだけ親密な関係を築こうとしている」(p61)。この「親密圏」における人間関係を大切にし、その維持に大きなエネルギーを傾けるので(たとえば、いつもケータイメールで繋がっていないと不安になる)、「その関係の外部に意味ある他者を見出す余裕がなくなる」(22)。昔は、ある種の客観的な(たとえば教師と生徒という)社会関係による役割意識によって、子供と他者との関係にはそれなりに「公共圏」も存在した。しかし現代の子供は、自分の感覚に適合するか否かという「親密圏」の引力が強すぎるので、社会の中での自己規定という側面が後退してしまう。


2004年6月に、佐世保市で小学6年生の女児が仲良しの同級生を殺すという事件が起きたが、これは「親密圏」の破綻と見なすべき事例である。最近、少しも”不良”ではなく、自他共に”良い子”として通っている子供が、衝動的に引き起こす残忍な事件がよく報道される。その背後には、子供の「親密圏」に特有な問題がある。一つには、子供の「親密圏」は、「他者から好かれたい」「自分が認められたい」という承認欲求を満たすための、ほとんど唯一の機能になっているので、それが不安定化あるいは破綻した場合の、子供の絶望感は昔よりずっと大きい。このことが、不登校や「引きこもり」を起こす一因である。また、二つ目には、「親密圏」が強すぎて、その外部にいる他者に対して想像力が働かなくなっているので、”オヤジ狩り”のように、罪の意識をまったく欠いた集団犯罪が起きやすい。いい年をした若者のグループが、驚くほど無知で素朴な犯罪を犯すのは、彼らの意識が、グループの「親密圏」の外に出られずに、「外部」に対しては道徳性の観念が働かなくなっているからである。


「個性」の理解も従来とは変容している。かつての「個性」は、他者との関係の中で自分に固有の在り方を見出し、そこに養われた自己肯定感が「個性」理解の核を成していた。しかし今の子供は、同質的な仲間と感覚的な好悪によって閉じた「親密圏」を作るので、対他的に見出される契機を自分の「個性」として育んでゆくことが困難になっている。それにもかかわらず、社会規範においては、「個性的であることがよしとされる」ので、子供は自分の「個性」を内閉的な自我の内側に発見しなければならなくなる。つまり、「磨けば光るダイヤの原石のようなものが、もともと自分の内部に備わっているはずだ」(27)という、「私探し」が必要なのだ。でも、自分の内部にはなかなか見つからず、焦燥感がつのる。若者が「個性」と同じ意味で使う「キャラが立つ」という言葉は、もともとテレビ局などの業界用語で、意図的に演技・誇張されたキャラクターを意味していたが、今ではそれが変容し、演技ではなく、自分に自然に備わっているパーソナリティ、つまり「素(そ)の自分」を意味するものになった(24f)。


今の若者は、たえず「コミュニケーション不全」の感覚に悩まされているが、しかし昔の人のコミュニケーション能力が高かったわけではない。昔は社会の役割分担が固定しており、対他関係はある程度強制的に作られたので、不安定な「親密圏」を苦労して維持する必要もなかった。今の子供や若者の「不全感」は、「公共圏」と「親密圏」の分離というコミュニケーション環境の変化が原因であり、彼らの「未熟さ」を責めても問題の解決にはならない・・・。


本書を読んで、私は大いに啓発されたが、しかし一方では、これは大人にも以前からあったコミュニケーション不全とも似ており、それが大規模に拡大したもののようにも思えた。たとえばチェホフは、「自分らしさを認めてほしい」大人たちの鬱屈した不満を見事に描き出した。いつも気配りに満ちて周囲に優しかった独り者のワーニャ叔父さんが、ある日突然拳銃を振りかざして相手を殺そうとしたのは、現代の暴走する「優しい子供たち」にとても似ている。本書はその他にも、擬似「親密圏」としてのネット・コミュニケーションや、「繋がっていることの喜び」をネットに求めて「自分自身の時間がなくなる」パラドックスなど、示唆するところが大きい。