田島正樹『読む哲学事典』(6)

charis2006-09-11

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(写真は、女神「テュケー」像の頭部。紀元1世紀頃の作。)


本書でもっとも面白い節の一つ、「運と偶然」(p59〜67)について、少し考えてみたい。田島氏の主題ともいえる「新しい意味の生成」の問題が、「運=テュケー」を手がかりに論じられている。アリストテレスは「偶然=アウトマトン」と「運=テュケー」を区別した。「運」は「偶然」の一種なのだが、人間の活動に関する場合に限られるという。この「運」という概念は、哲学的には非常に興味深い。というのは、我々は、起きた出来事をうまく因果的に説明できない場合、それをランダムな確率としての「偶然」として突き放すこともできず、そこに何か「意味」を読み取ってしまう傾向があるからである。


たとえば、碁石を部屋にぶちまけた場合、石が適当に散らばった形に布置すれば、何とも思わないが、しかし、たまたま「ハート」の形に石が布置したとすれば、驚いて「これは縁起がいい」「神の思し召しか」等と思ったりする。確率だけで考えれば、よくある適当に散らばる形の布置であっても、それと「まったく同じ」形が出る確率は非常に小さく、「ハート」型が出る確率の小ささと変わらない。しかし我々は、毎回異なって適当に散らばる形を、すべて「適当に散らばる形」として一括して捉えるので、それらは特に「意味のない形」であるのに対して、「ハート」型は特別に「意味のある形」であるという対照が生じる。「運」もまた、これと似たところがあり、それはランダムな偶然ではなく、そこに「幸運」「不運」という「意味が生成する」事態である。


田島氏は、「新しい意味の生成」を、因果的説明と対比しつつ論じる。因果的説明とは、生起するさまざまな出来事を、ある原因が引き起こした結果として理解することである。因果的説明は、原因の項と結果の項がうまく対応する分節を持つことを特徴とする。この分節が、同時に目的合理的な製作や行為を支えていることが重要である。つまり我々は、「こうなれば、ああなる」という因果性の理解をもとに、「このようにして、あれを作る」という製作を行うのである。我々はこのように、操作や行為を因果性と深く結びつけているので、予想しなかった出来事が起きた場合も、何とかこの図式で説明しようとする。原因となった「意図」が不可解な場合は、「魔がさした」などという原因を持ち出したりもする。


「新しい意味の生成」を捉えにくくしているのは、このような隠された因果性の呪縛である。「これといって何の原因もないのに、この有意味な頻度の高さに[たとえばハート型の出現]、何か意味を求めてしまうのは、結果における有意味性と同程度の有意味性が原因の方にあるべきだと感じられるためである。」(62)「意味の生成は無意味からの生成である限り、生成した意味を同じような豊かな意味によって説明することができない。(テュケーと言われるのはそのような場合である。)もしそうできるとしたら、それは目的合理的な製作になってしまう。」(65f)


テュケーの女神の加護というのは、機械仕掛けのアテナ神が登場するのと似ており、我々がよく承知している先行する原因の意味によっては、生起した出来事の意味を説明できないことを暗示するところに、その役割がある。つまり、ある種の出来事については、その出来事に先行する原因だけでは、その出来事の意味は完全に説明できず、たんなる「偶然」のように見えてしまうのである。しかし、その出来事より時間的に後に起きることを考慮に入れると、そこではじめて、最初の出来事の意味が見えてくる。「テュケー」の本義は、「遡及的に意味深いものとされた稀有な偶然が、運命的なものとされる」(66)ところにあるのだ。田島氏は、「ニーチェの”永劫回帰”とか”大いなる正午”とは、このように過去の偶然を遡及的に有意味たらしめる観点の生成のことである」(67)という。