田島正樹『読む哲学事典』(7)

charis2006-09-12

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(写真は、哲学者フレーゲ。「意味」を「Bedeutung(=reference、指示対象)」と「Sinn(=sense、意味内容)」との両面から捉えた。これによって、意味と真理の関係を明確に論じられるようになった。)


「言語と意味」の節を解題。文や語の「意味」とは何かという問いは、答えるのが難しい。有力な立場の一つに、意味とは真理条件のことだという考えがある。つまり、ある文の意味を知っているというのは、その文が正しく使われるのはどのような場合であるかを知っていること、すなわち、その文が真になるための真理条件を知っている場合である。ここでは、文の意味が、真・偽という概念に依存して説明されている。だが、これはとても素晴しい考えなのである。たとえば、ある対象を描く絵ならば、その絵は対象に似ていることによって、「正しい絵」と言われる。写真なら、もっと対象に似ている。だが、言語は対象に似ていない。「赤い」という言葉は赤い色をしていない。にもかかわらず、言葉は世界を「描写する」ことが可能である。それは、文が「真である」というただ一点で、世界と結びつくからである。世界とまったく似ていない言語が、世界を「描写する」ことができるのは、「真である」ことができるからなのだ。だから、言語の「意味」は、根源的に「真」に依存している。


さて、問題はそこから先である。これだけの構図では、「意味」の在り方を十全に捉えたことにはならない。フレーゲは、「意味」を、「Bedeutung(=reference、指示対象)」と「Sinn(=sense、意味内容)」の二つの要素に分けて考えた。フレーゲの用いる例は、一見すると人を戸惑わせる特殊な場合のように見えるが、実は、言語の本質に関わる洞察が含まれていると田島氏は言う。フレーゲによれば、「明けの明星」と「宵の明星」は、どちらも金星であるから、文の真理値を変えることなく、入れ替え可能である。これを、二つの語はBedeutungが等しいと言う。ところが、「明けの明星」とは、明け方に東の空に見える明るい星のことであり、「宵の明星」は夕方に西に見える明るい星のことだと知っているが、両者が同じ金星であることは知らない人は、これまでにたくさんいた。それでも彼らは、それぞれの真理条件を知っているから、それぞれの言葉の意味を正しく知っていたわけだ。これを、二つの語はSinnが異なると言う。


フレーゲによる、BedeutungとSinnの区別は、非常に大きな射程を持っている。それは、言語の本性を、人間は「異なった道を通って同じ対象に達することができる」という根本事実に即して捉えているからである。人類の長い歴史において、大多数の人間は、「明けの明星」は、「明け方に東に見える明るい星」という真理条件によって、また「宵の明星」は、「夕方に西に見える明るい星」という真理条件によって、それぞれのSinnを独立に捉えていた。ただ天文学者の洞察だけが、両者は同じ金星という惑星であるという、Bedeutungの同一性を認識することができた。そして現代の我々は、理科の教科書を介して、それを知るようになった。つまり、人間は世界に対してさまざまに違うアプローチを行っており、言葉は、その違いに応じたSinnの差を持っているが、にもかかわらず、時間の経過と経験の進展を通じて、同じ対象に出合うがゆえに、異なったSinnが同じBedeutungを持つようになる。言語は、つねに生成途上のものであり、人類の経験を総合・集大成するものであるからこそ、「意味」はSinnとBedeutungの両面を持つのである。


田島氏は、このようなフレーゲの言語観をダメットの反実在論と結びつけて継承する。もし言語の「意味」が、世界へのアプローチの差によるSinnの差を本質的に含むのだとしたら、そのアプローチが実際にどのように行われるかに、「意味」は依存することになる。未来には、これまでに為されていなかった新しいアプローチがいくつもありうるだろうから、「意味」は現在という時点では、原理的に完結しない。これが、田島氏の根本テーゼである「新しい意味の生成」や、「後から遡及して意味が現れる」ことを支えている言語観なのである。「一般に、問題の意味と本質は、それが解かれて[=アプローチが見つかって]はじめて明らかになるのではないだろうか?」(p89) 田島氏のこの言葉は、「ゴールドバッハの推測」という特殊な例に事寄せて言われているが、実は、言語一般に関わる話であり、我々が世界に出会う根源的な形式についての話なのである。