田島正樹『読む哲学事典』(8)

charis2006-09-13

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(写真は、メラニー・クライン(1882-1960)。フロイトに師事し、幼児の精神分析で名高い。)


「ここと私」の節を解題。この節は本書の中では難解な部に属する。田島氏は、「もし実際に私が田島であるならば、私=田島の同一性は必然的に真であるのだが、しかし・・・、なぜ私=永井均である楽しい可能性を自由に享受できるかのように(幻想的に)思わせるものがあるのか」(p99)、という問いから出発する。これは、我々が子供の頃よく感じた疑問、「もし私が、この現実の誰それではなく、別の誰かだったら」という反実仮想の問いである。この問いは無意味であるという哲学者もいるが、田島氏はそうは考えない。ラカンやクラインなどの精神分析的な自我論も考慮して、「われ思う」における想像的要素と象徴的要素に着目する。想像的・象徴的自我は「シニフィアン(言語表現)」として存在するので、当初の分析哲学的な自我の問いに再び合流するという野心的な構想である。短い記述の中で、論が十分に展開されているとはいえないが、興味深い論点を拾ってみよう。


デカルトの「われ思う」という透明な自我を疑問に付して、田島氏は、自己知の一番基礎に、「今ここ」に知覚される光景と一体になった自己の身体感覚を置く(102)。この根源的な身体知としての「私はここにいる」は、たんなる知覚知ではなく、「行動の原点」としての主体である。だが、行動の主体は必ず私の現実の身体なのだろうか? 荘子の「夢に胡蝶となる」はどうか? 花から花へ飛び移り、蜜を吸うのは「蝶である私」だ(104)。あるいは、劇でハムレットを演じる場合、「ハムレットである私」はどうか? 「蝶である私」も「ハムレットである私」も、現実の世界には指示対象がない。つまり、行動の原点としての「私」は、虚構の身体であってよいというのが、もっとも重要な「自我の事実」なのである。


「夢の中の自己表象や劇の中での自己表象がまったく想像的であるように、すべての自己表象には、実は想像的なものが含まれるということなのではないか? 我々は、意識とか自己意識を前提に、想像的なものを解明するのではなく、想像的なものの一つとして意識や自己意識を考えるべきである。」(105) 「想像は純粋にイメージを観想することではなく、身体を類似物(アナロゴン)として使った上演であると考えられる。」(106)


「想像は、身体を類似物として使った上演である」というテーゼは興味深い。なぜなら、どんな想像的世界も、虚構の(=想像された)身体を起点にして、「その」眼前に開けているから、「今ここ」から世界が開けるという時空的構造を持っており、これがパースペクティブの相互転換、つまり自己の身体から他者の身体への移入を可能にしているからである。我々は、「他者の視点に立つ」「他人に成り代わる」「他人の立場で考える」等々ということを、容易に理解できる。だが、現実の身体にのみ対峙する透明なデカルト的自己意識は、意識そのものがパースペクティブを持つことができないので、空間的定位ができず、「他者の視点に立つ」ことができない。そうではなく、最初から、想像的な身体に立脚する自己意識を考えるべきなのである。


このように「想像的なもの」を最初から含む「私」は、しかし、それだけではまだ十全な「私」ではない。「私」は、他者の身体と空間的なパースペクティブを相互転換できるだけではなく、「欲望の主体」として、他者と自己との関係を理解できなければならない。クラインは、母親の乳房による充足・不充足が乳児の内部に生みだす身体感覚が、原初の記号として機能することによって、「愛と憎しみ」という「意味」が生み出されることを明らかにした。つまり、人間はその最初の授乳からして、たんに生物学的な充足を超えた「過剰な意味をもつ」ことを運命づけられている。愛は主体にとって、「他のものによって代理されている象徴的欲望として立ち現れる」(107)。このような欲望の弁証法を通して、やがて「他者からの掟に服する存在」としての「規範としての私」、言語的規範の主体でもある「象徴的な私」が成立する。このように、自己意識としての「私」は、物質と対峙する精神としての透明なデカルト的意識ではなく、最初から、想像と象徴という関係を介して作られる、記号的・言語的な主体なのである。