田島正樹『読む哲学事典』(9)

charis2006-09-19

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)


(挿絵は、哲学者ヘーゲル)


弁証法と(再)定義」の節も、注目に値する。哲学史を大きなスケールで捉え、しかも個々の読みが深い。田島氏は、まずアリストテレスの「弁証法(弁証論)」に立ち返る。我々は言葉によって、ある事柄について問い、答え、説明するが、その際に言葉の「意味の同一性」が保たれているとは限らない。「意味」がずれていれば、「同じ事柄」を論じているつもりでも、実はそうなっていない。だから、実のある議論のためには、つねに言葉の意味を「再定義」しなければならない。だが、議論の当事者が言葉を自由に「再定義」できるものだろうか? ここが問題の核心である。アリストテレスは、「人々がその言葉をどのように用いているか、その事例を分析せよ」と説いた(p189)。「言語は他者の言語使用を借用する形で習得する他ない。それゆえ・・・[言語を]隅々まで自己の権能の下におけるものではない」(191)。つまり、言語の意味は、その根源において他者性に向かって開かれており、自己が完結させることはできない。「定義」は、その本性からして未完結なのだ。人々の言葉の使用法をつねに参照しつつ、意味の「再定義」を行い、そして事柄を明らかにすること。これがアリストテレスの言う「弁証法(論)」であり、田島氏が本書で一貫して強調する、「意味の未完結性」のテーゼとも即応している。


しかし、このようなギリシア的な「弁証法」の伝統は、近代哲学が「明晰判明な観念」を基本構図に取ることによって、周縁に押しやられてしまった。カントに言語哲学がないことに典型的に示されるように、近代哲学においては、言語は意図や観念の「外皮」になり切って、みずからは後景に退いた(195)。その結果、明晰な観念によって構成される「意味の製作モデル」が支配的になり、主体は合理性の規範的要請として理解された(195)。ギリシアの「弁証法」においては、主体は、ソクラテスの「無知の知」に代表されるように、他者性に媒介された意味の「亀裂」を内包する未完で不完全なものであったのに対して、近代の主体は、「自己」が完結した規範的存在になってしまった。


これに対して、「言語の問題と主体の欲望の問題を結びつけることによって、ギリシア以来の弁証法に新しい息を吹き込んだ」(195)のがヘーゲルであると、田島氏は言う。田島氏のヘーゲル論は非常に興味深く、光彩陸離たる議論になっている(p195〜201)。それは、人間の欲望の未完結性を、言語の意味の未完結性と一体のものとして捉えるからである。ヘーゲルによれば、人間の欲望は、たんに生理的欲求が満たされるのとはまったく違う。人間は、ある欲望が充たされたからといって、それで満足するわけではない。「自分が本当に求めていたのはこれではないという思い(剰余の欲望)」(196)が、むくむくと頭を持ち上げてくる。欲望の充足は、それ自体が「主体自身の内部に矛盾を作り出し」(同)、欲望の充足そのものが、欲望の変容をもたらし、主体を変容させてしまう。こうなるのは、人間の欲望はその根本が言語によって媒介されているからであり、「欲望を持つことは、人間においてはとりわけ言葉を持つことであり、言葉の中に生きることなのであり、また言葉を持つことが欲望を持つことなのである」(同)。ギリシア弁証法がつねに「再定義」を求めていたように、人間の欲望は「いまだ成仏できずにさまよう幽霊のように、己れの真実を追い求めてさまよう精神(Geist)と見なされる」(=『精神の現象学』)。


ヘーゲルはさらに、欲望の「無限性」に人間の絶対的自由の姿を見届けた。欲望の「無限性」とは「死を賭けた戦い」のことである。「死を賭けた戦い」とは、降伏すれば命が助かるにも関わらず、戦うことである。ここで賭けられている死は、地震や猛獣に襲われるなどの自然的災害による死、すなわち自然によって打ち倒される「無力」とは決定的に違う。降伏すれば助かるという他者認識によって媒介されているからこそ、戦おうという自己の欲望は、無力ではなく絶対的自由として意識されるのである。つまり、互いに相手を主体として「承認する」ことの中に、自己の欲望が「無限性」として肯定されるのである。「主体はついに、己れの欲望が他者からの承認と、無限性の次元に開かれていることに思い至らざるをえない」(199)。有限な、断片的、微温的欲望の内に自足している限り、このような欲望と他者性と無限性の繋がりは見えこない。


このことは、すでにパスカルが「気晴らし」として洞察していた。どんなつまらない欲望の充足も、人間にとっては、死と正面から向き合うことを避ける「遁走=気晴らし」であり、実は「無限なもの(死と絶対者の観念)に媒介されている」(199)。パスカルのこの洞察を、ヘーゲルは、欲望と主体の言語的本性によって、決定的に深めたわけである。人間の欲望は、食欲のようなものであっても、動物の自然的欲求とはまったく違う。たとえば拒食症では、「食事自体が<愛の表現(シニフィアン)>という意味を帯びてしまうので、・・・それ自身が他者からの承認の欲求に媒介されていることが明らかになる」(199)。欲望は、「死を賭けた戦い」によって、自己の限界=無限性に媒介されていることが明らかになる。言語の意味がどこまでも他者性に媒介されて完結しないのと同様に、人間の欲望はそれ自体が言語的なものなので、他者からの/他者への承認に向かって開かれており、決して完結しない。ラカンもまた、このようなヘーゲルの洞察を引き継いだ一人であるといえる。