長塚圭史『アジアの女』

charis2006-09-29

[演劇]  長塚圭史作・演出『アジアの女』 新国立劇場小H


(写真右は、岩松了富田靖子。写真下の右人物が近藤芳正。)

劇団・阿佐ヶ谷スパイダースを主宰する長塚圭史は1975年生れの若手。劇を見るのは初めてだが、胸を締め付けられるような不条理劇だったので驚いた。凄い才能を感じる。舞台は、近未来に想定される関東大震災後の東京。廃墟の中に、ひっそりと兄妹が暮らしている。兄の竹内(=近藤芳正)はもと編集者でアル中気味、妹の麻希子(=富田靖子)は心を病んでいるが今は落ち着いている。そこに、以前竹内に世話になったダメ小説家の一の瀬(=岩松了)がやってきて、兄妹にからむ。三人とも心に痛手を負っており、竹内は、妹を捨てて自分は逃げ出すのではないかという強迫観念に囚われているので、廃墟の家から離れようとすると身体がこわばって動けなくなる。一の瀬は、ハエにたかられるという幻覚に、時々襲われる。麻希子は、潰れた家の一階にいるネズミを、まだ生きている父と錯覚して、毎日食事を差し入れたり、日の当たらない庭に小さな畑を作り、丹念に水をやるという静かな生活だ。


兄妹の静かだが内閉的な空間に一の瀬がやってきても、彼もまた幻想と幻滅を持て余す弱者なので、三人の奇妙なディスコミュニケーションによって内閉性は増すばかりだ。東京のど真ん中のこの廃墟の家は、現実の只中にあるようで実は現実から隔絶されている。この内閉的空間は、麻希子の旧友の女性が麻希子に売春の斡旋をすることによって、外部に開かれる。心を病んでいた麻希子は、無垢で無防備なまま、「被災者の話し相手になるボランティア」という騙し文句に誘われて、恐らくは深い自覚なしに売春してしまう。何よりも配給券や食料や現金が手に入るので、彼女には、兄や一の瀬の生活を支えるという張り合いが生れた。重度の天然ボケだった麻希子は、売春するようになってからは、生き生きとした感情を見せる溌剌とした女性に変わってゆく。


だが、麻希子はふとしたことから中国人のやもめ男性を好きになり、彼の小さな子供やその周囲の子供たちのための本当のボランティア活動に目覚めてしまう。震災後の東京では、中国人差別が横行し、暴力事件が頻発している。遠くで銃声のような音が聞こえる。たぶん麻希子は、何かのトラブルに巻き込まれて死んだのだろう。だが、それとは知らず、小説が書けそうになった一の瀬は原稿を書き始め、竹内と盛り上がっている。立ち直るきざしを見せる二人。だが麻希子は帰ってこない。そして、二人もいなくなった無人の廃墟に、植物が芽吹いて終幕。


震災のような現実に対応することによって、人間は現実的になるのだろうか? そういう面もあるが、それは事柄の一面に過ぎない。長塚はプログラムノートで、阪神大震災そのものと、あたかも何事もなかったかのように復旧した現在の京阪神の活況とのギャップを感じると書いている。この作品の優れたところは、自分で合理的に行動する能力のない三人の人間が、自力ではなく、偶然の成り行きによって内閉空間から解放されるという、重く悲しい現実を示唆している点である。現実の只中にありながら、非現実を生きざるをえない人間。麻希子は一つの寓話であるが、世界中にいるであろうたくさんの麻希子たち、「アジアの女」への鎮魂でもある。


岩松了近藤芳正富田靖子の三人は、今までに何度か見た役者だが、今回の物語にはこれ以上ないほどぴったりのはまり役だ。永井愛『歌わせたい男たち』のダメ教師を演じた近藤は、ぐにゃっとした中に現実と非現実が拮抗するリアリティを感じさせる。富田靖子も『ガラスの動物園』のローラと似た役柄。内閉空間の境界線を越えるときの輝きが素晴しい。この三人がぴったりするということは、『アジアの女』はその根底においてチェホフ的なのだと思う。