永井愛『書く女』

charis2006-10-09

[演劇] 永井愛作・演出『書く女』 世田谷パブリックシアター


(ポスターの写真は、樋口一葉を演じる寺島しのぶ。永井愛の仕事机で永井のTシャツを借りて撮ったと、アフター・トークで寺島の弁。)


6月に『やわらかい服を着て』の新作上演を行ったばかりの永井愛が、樋口一葉を主人公に再び新作上演。昨秋の『歌わせたい男たち』といい、『書く女』といい、これだけの傑作をハイペースで「書く女」も凄い。台本が出来たのが公演初日の二週間前。滅茶苦茶に科白の多い一葉役の寺島は、毎晩、布団の中まで科白の稽古をして、台本を抱くように眠ったという。それでも不安で、初日は体が震えたそうだ。初日の舞台が無事に終わって、永井は泣いたというけれど、短期間にこれだけの舞台を創り出した関係者のテンションには驚く。今日のアフター・トークでは皆すっかりリラックスしていたが、演技は日に日に成長するという話に納得。


寺島しのぶはこれまで10回以上見たが、この一葉は、彼女の代表作の一つになるのではないか。6年前、エレクトラを舞台間近で見たときには、その絞り出すような苦悩に戦慄を覚えたが、今回の一葉は、創作者・表現者として一気に飛躍する一葉の晴れがましい美しさに圧倒された。エレクトラといい、一葉といい、これをやるために貴女は生れてきたのだと言いたくなる名演だ。井上ひさしの『頭痛、肩こり、樋口一葉』も名作だが、『書く女』の特徴は、一葉を「薄幸のヒロイン」としてではなく、どこまでも表現者・創作者として捉えている点にある。表現者を主人公とする物語を作るのは、簡単ではない。自殺したイギリスの詩人シルビア・プラスを主人公にした映画があるが、詩人としての彼女の苦しみがまったく描かれておらず、ケーキを作って夫を待つ「可愛い妻」が強調される通俗的な作りに失望したことがある。樋口一葉を真正面から描くことも、本当は難しいはずだ。


『書く女』もまた、多くの樋口一葉論と同様に、一葉日記を精緻に読み解き、半井桃水(なからいとうすい)と一葉との恋を機軸に物語を構成している。違うのは、桃水との恋を「男女関係があったか否か」という俗流に還元するのではなく、彼女の創作者としての飛躍と成熟の中に、その恋を昇華しようと努力したことである。プログラムノートで永井は言う。「少なくともあの日記は、<男なんてこんなもんよ・・・>なんてやさぐれてる女性が書いたものではないと思うんです。・・・私は二人の間には<なかったと思いたい派>ですが、その方がロマンティックだからというのではなく、一葉と日記の関係を信頼したいからです。一葉は、桃水との間には何も無かったのに疑われたということを繰り返し書き、憤慨している。これを自分への言い訳や、見られることを意識しての情報操作だとは思いたくない。桃水が誘いをかけたことはあったかもしれないけれど、それを断って帰ってくることで満たされた部分があったんじゃないかと。それに後年、若き文士たちとの交流があって、みんなとても一葉を慕って尊敬するでしょう。一葉自身も、自分が彼らの目に魅力的に映っていることを十分に知っています。桃水への叶わぬ思いはそうやって、青年たちとの交流や、作品の中の恋愛に、プラトニックなまま昇華されていったんじゃないでしょうか。」


ジェイン・オースティンやエミリ・ディキンソンもそうだが、独身だった女性作家は、作品や日記、書簡などから、男女関係を根掘り葉掘り穿鑿される。当の作家への思い入れからそうなるのだろうが、鬱陶しいことも事実である。瀬戸内寂聴はどこかで、「一葉は女です。絶対、処女じゃありません!」と熱っぽく説いていたが、そういう問題ではないというのが、永井愛の基本的スタンス。『書く女』は、朝日新聞小説記者だった桃水に、19歳の一葉が小説の指導を請うところから始まる。強度の近視で、おどおどとして自信のない一葉を、寺島しのぶは実にうまく演じている。歌塾「萩の舎」での、上流階級のお嬢様たちと一葉との交流も、巧みに織り込まれている。吉原の近くに雑貨屋を開き、母と妹と三人で貧困のどん底に生きる一葉。しかし『おおつごもり』あたりから、24歳の死までの「奇蹟の14ヶ月」が始まり、『たけくらべ』『にごりえ』を経て、彼女の評価は一気に高まる。鴎外や露伴に絶賛され、斉藤緑雨、川上眉山平田禿木、馬場胡蝶(馬場辰猪の弟)など、若き文学青年が一葉の家を訪れて、彼女と交わす文学議論はとても楽しい。自信に満ちた一葉は、堂々と彼らと渡り合い、表現者・創作者としての彼女には、輝くような美しさが備わってくる。そして、日清戦争を機に高まるナショナリズムに抵抗する文学青年の詠嘆を、きちんと織り込んでいるのも、永井愛らしい優れた見識だろう。


一葉の死後に日記の刊行に尽力した最大の理解者、斉藤緑雨とのやり取りは面白い。二人とも「すね者」を自認している。「桃水との関係はどうなんだ!」と迫る緑雨に、一葉はにっこりと微笑んで「ウッフッフ、さあどうかしら」とかわす。「ある作品で、夫が出て行くようにも妻が出て行くようにも読めるが、どちらなんだ」と聞く緑雨には、「文学というものはね、読者の多様な読みを許してこそ面白いのよ」と、デリダ風に答える! 創作者の自由が輝き出るこの瞬間の、一葉の(そして寺島しのぶの)何という美しさ!!