斉藤慶典『デリダ』

charis2006-10-15

[読書] 斉藤慶典『デリダ − なぜ「脱-構築」は正義なのか』(NHK出版)


斉藤氏の新著が出た。デリダについては、すでに高橋哲哉氏の優れた解説書があるが(『デリダ脱構築講談社 1998)、本書の特徴は、「脱構築」と正義との一体性に焦点を絞っている点にある。やや重い文体ながら、粘り強い思索によってジリジリと対象に肉薄していく斉藤氏ならではの好著といえよう。プラトン以来の「同一性の形而上学」を批判するデリダの「脱構築」は、際限のない相対主義に導くものだと批判されることがある。だが斉藤氏によれば、そうではない。斉藤氏は、デリダの初期の「記号」「痕跡」「エクリチュール」といった概念にこだわることによって、それが後期デリダの正義論を開花させたことを明らかにする。


デリダによれば、世界は「表現されたもの」「現象」「痕跡」であり、広義の「記号」あるいは「テクスト」である。世界がテクストであるだけなく、自我でさえも、自明な実体のようなものではなく、そのつど読み解かれるべきテクストなのである。デリダは、「脱構築は・・自分自身を文学的テクストと同等に置く」と言う(p62)。世界や自我がテクストであり、我々には「記号」しか与えられていないということは(知覚も記号である)、その記号によって意味される「本体」が不在ということである。「本体」は「記号ではないもの」すなわち「記号の他者」であるから、「本体の不在」は同時に「他者の不在」でもある。


にもかかわらず、我々の常識は、世界を記号とはみなさずに物それ自体であると思い込んでいる。たとえば私の眼前に見える机は、机そのものであり、「机」という記号であるとは思わない。しかし本当は、私に見える机は、私の「視点」から開けた「私の視野」に現れるそのつどの「現象」なのであり、その証拠に、私が少し体を動かせば、それは違った「現れ」に変わる。この様々に違った「現われ」を通して、私はそこに「現れ方は違うが、本体は同一の机」を見て取っている。つまり、様々に異なる「現れ」「表れ」=記号が、「本体」を表現しているのだ。「表現」には本来、表現するもの(=現れ、記号)と表現されるもの(=本体)との間の「亀裂」が含まれているが、その「亀裂」を見ずに、「現れ」を「本体」と同一視するのは錯覚なのである。


私の机は、これからもさまざまに異なった本や物体と一緒に現れるから、その「表現」に終わりはない。斉藤氏の言うように、その机に人が載って、天上の塵を払う「踏み台」になることもあり、あるいは、他国の森林を切り倒して輸入された材料から作られたことを知ったときには、自然破壊の一環である物体として、その机は「表現される」かもしれない(p74f)。我々にとって「机」とは、新しい現れ方によってそのつど新しく読み取られる終わりなき過程=テクストなのである。このように、ある現れが別の現れによって読み替えられることが、「脱構築」であり、このような読み替えの脱構築の中にこそ、世界の中に新しい表現や意味を創造する人間の自由が存在している。「正義」もまた、このような自由の中でこそ可能になる。


正義は、それ自体が自明の同一性として存在するわけではなく、「それ自体は不在」だからこそ、そのつどの個々の行為を通して「表現される」ことができる。個々の現象として現れているものが正義なのではない。それは現象と本体の同一視の錯覚である。たとえば、正義と規則の関係を考えてみよう。「規則に従う」から我々の行為が正義なのではなく、正義だからこそ「規則に従う」我々の行為が可能なのだ(p104)。これは微妙だが重要な違いである。事前に与えられている規則は、目に見える規則であり、その規則に自分の行為を「当てはめる」のは、たんに受動的な「繰り返し」であり、正義ではない。正義とは、「規則に従う」こと自体が、新しい意味の創造であるような在り方である。それは、従来の規則の「読み方」には見えていなかった新しい個別の事例へ、その規則を「読み替える」決断であり、規則を創造し直すことである。デリダはそれを、「繰り返し」とは区別される「反復」と呼び、これがまさに「脱構築」なのである。


このような正義には、実は、他者の全面的受容と肯定という背景がある。斉藤氏によれば、「私は他者を受容し・肯定するがゆえにそのように行為する」のが正義である(104)。つまり、我々の行為は、それに先立って他者を受容していなければ、その正しさを問うことができない。実際、我々が現実の他者にどのような態度を取ろうとも、我々はそれに先立って、個々の現象とは異なる「不在の他者」を肯定し、全面的に受容している。そうでなければ、他者に「反発する」という態度を取ることもできない。他者に反発し拒絶するという態度は、すでに他者の存在を受容した上での「二番目の対応」だからである。存在を受容しているからこそ、それをあらためて排除したり否定したりできるのであり、「あらためての無視や排斥は、受容の一形態でしかない」(98)。このように正義は、現にある他者の特定のあり方をそのまま肯定することではなく、それに先立って「不在の他者」を全面的に肯定することによって開ける、読み替えの自由の境域に存するのである。


我々は、法(則)なるものを実体化して、それを単に個別的状況に適用しているだけだと思いがちだ。しかし、裁判官が法を参照しながら個別事例に判決を下すとき、それは法そのものをそのつど創造している。書かれた法という「痕跡」を、様々に多様な事件において「別の仕方で現象する」痕跡に「読み替える」ことによって、「正義それ自身の秘匿性」を守りながら、正義に関わっている。つまり裁判官は、つねに法という「痕跡」「記号」を「脱構築」するからこそ、正義に関わることができる。「脱構築」と正義は、深く通底しているのである。