田島正樹氏の『ヨブ記』論

charis2006-11-24

(挿絵はブレイクの『ヨブ』より)
田島正樹氏が、10月6日より、ご自身のブログ「ララビアータ」で、旧約の「ヨブ記」について覚書を連載されている。↓
http://blog.livedoor.jp/easter1916/


実にスケールの大きな興味深い解釈なので、この問題に関心を持つ者として、氏の「ヨブ記」論を取り上げてみたい。私も8月の日誌で「ヨブ記」に触れたが、今回の田島氏の論稿を拝見して、ようやく「ヨブ記」を理解できそうに思う。


ヨブ記は旧約中でおそらくもっとも問題を孕む書といえる。ヨブが神に力ずくで屈服させられる経緯に、何ともいえない割り切れない思いが残るし、ユングのように、神ヤハウェの未熟さを正面から批判して、「神が人間に追い越された」という解釈をする論者もいる。田島氏は、ラカンのテーゼを根底に置いて「ヨブ記」を読む。すなわち、「主体が象徴界に生まれる時、不可避的に象徴界に対して遅れをとらざるをえない」というテーゼである。これは何を意味しているのか。まず、我々は最初から「主体である」のではなく、「象徴界=言語世界」に参入することによって、初めて「主体になる」。たとえば赤ん坊は、周囲の大人たちが会話の中で「自分を話題にしている」ことを聞いて知る。この「あ、それは私だ」という言語体験、「言語の中で呼びかけられる」体験が、自分=主体を作るのである。あるいはまた、文学のテキストの中に、「あ、これは私のことだ」という読みを見つけた時に、著者という主体と私という主体が向き合っていることを感じる。


ヨブ記のポイントは、ヨブが「神から、他ならぬ自分が呼び出された」ことの意味を理解する点にあるのだが、ここには、神との応答という言語の場に、神によって創造されたヨブは「つねに遅れて参入する」というタイムラグがあり、しかもそのタイムラグは、ヨブを絶対に必要とするという困窮にあった神が、「ヨブを待っていた」という、この「待つ時間」でもあるという二重の構造がある。このタイムラグの二重性の中に、神の合理的創造と、我々人間一人一人の「個体」の受難という根本問題を見ようとするのが、田島氏の「ヨブ記」解釈である。


だがその前に、神の世界創造の不完全性という問題を見なければならない。この世界で起きることは、たいていその「理由」があり、無根拠で起きることはない(ライプニッツの充足理由律)。そしてこの「理由」は、事物の本性に基づいている。「こういう場合には、こういう具合になる」という確実な関係が普遍的に妥当するからこそ、それは事物の本性なのであり、「ものの自然的性質」と呼ばれているものは、皆そうである。「性質」とは一般的なものであり、「この私だけ」にしか当てはまらない性質、たとえば「charis性」といった性質はない。しかし、この世界に起きることはすべて事物の本性で説明できるとしても、その説明は、なぜそれが「この私に生じるのか」という問いには答えられない。なぜなら、たしかに私も様々な一般的な性質を持っているが、それらの性質を持つ人は他にもたくさんいるのだから、私の持つ「性質」を根拠にして、その出来事が他ならぬ「この私に」起きたのかを説明することはできない。ヨブの友人たちは、ヨブの不幸を、ヨブに関わる様々な一般的な理由によって説明したが、そのすべてにヨブは納得できなかった。つまり、神が創造したこの世界の合理的「性質」からは、この私の受難が説明できないという仕方で、神の世界創造とヨブという人間の「個体性」とが対立する高次の問題次元が、ヨブ記において開示されたのである。


レヴィナスによれば、ヨブ記の核心は、ヨブが神に「呼び出される」=「選ばれる」その特別な在り方にあるという。田島氏のブログから引用しよう。「レヴィナスヨブ記解釈の優れた点は、ヨブが神に向けた<何ゆえ、私が?>という問いが、そのまま神からヨブに向けられた問いとして理解されねばらならないこと、答えを神に求めてはならず、ヨブその人が身をもって答えなければならないものだということを、神はヨブに思い出させたのだ、ということ示した点にある。神は全知でも全能でもないから、ヨブがどう答えるかを知らない。ここに、まがい物ではないヨブの自由が存在する。それは一般的な人間の自由ではない。」


さらに田島氏は続ける。「ヨブが神に遅れをとっているということは、神の急迫した窮乏を示している。つまり、ヨブの受難とは、実際は神自身の受難であり、窮乏の中ですでに神はヨブを待っていたのである。神が創造した世界が何とも不完全なものであり、多くの不条理に満ち満ちたものであったからこそ、神はヨブを必要としたのだ。・・・神は、わざわざヨブを選んで、[世界の不完全さという]問題の只中に置いたのだ。それがヨブの受難である。ヨブは、受難を神からの問いかけとして理解し、自らの自由によって応答せねばならない。」


ヨブ記の神は、ライプニッツの完全な世界を創造した神とはまったく違う。神はヨブを「選んで」受難させ、ヨブに問いを起こさせ、そしてその問いをヨブに返した。ユングのように、「神が人間に追い越された」とまでは言わないが、神は世界創造の不完全さを認めて人間に自由=主体を与えたのである。いわば世界創造に次ぐ、第二の根源的な贈与、これこそがヨブの物語なのである。