ワルシャワ室内歌劇場『ドン・ジョバンニ』

charis2006-12-18

[オペラ] モーツァルトドン・ジョバンニ
ワルシャワ室内歌劇場 東京文化会館


(写真は、ジョバンニの地獄落ち後、大団円のフィナーレ。前列左より、マゼット、レポレロ、ツェルリーナ、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィラ、ドン・オッターヴィオ)


色々な発見があった。この作品は、さまざまな次元の対立軸が輻輳して、思いのほか奥行きが深い。例えば、上記写真の終幕の台詞が印象的だ。農民のマゼットとツェルリーナは「さあ私たち、お家に帰ってご飯を食べよう!」 召使のレポレロは「俺は、もっといいご主人を探すぞ!」 庶民は明るい。しかし上流階級の台詞は違う。ドンナ・エルヴィラ:「私は修道院に入って生涯を終えます」。ドンナ・アンナ:「心が落ち着くまで、結婚は1年待ってほしい」。ドン・オッターヴィオ:「愛しい人の望みなら仕方がない」。考えてもみようではないか。ツェルリーナなら、「心の整理をするために、1年待ってほしい」とはまず言わない。アドルノの「ツェルリーナ賛」ではないが、ここが彼女のいいところだ。「お家に帰ってご飯を食べよう」とは、何という素晴しいセリフ!


ドン・ジョバンニ(=ドン・ファン)は魅力的過ぎる。ツェルリーナ誘惑の二重唱や、「シャンペンのアリア」(1幕15場)、マンドリン伴奏のセレナーデなど、歌も美し過ぎる。キルケゴールは、「ドン・ファンは音楽でのみ表現できる。彼は、個々の女性ではなく、女性全体しか愛せないのだから、それは言語ではなく音楽でしか表現できない」と述べた。「聞け、いざないのささやきを。聞け、誘惑の渦巻きを。聞け、瞬間の静寂を。聞け、聞け、聞け、モーツァルトの『ドン・ファン』を!」(『あれか、これか』)と、キルケゴール自身も舞い上がっている。


しかし、たとえジョバンニが、「あまりにも長いこと神が罰せずにおいた不信心者」「悔悛せぬままに聖化された者、神に近づこうとする者」(スタロバンスキー)であり、「祝祭、幸福なオルギア――否定し、神のように障害物を打ち倒す――が、人間の姿をとる化身にほかならない」(バタイユ)としても、このオペラの中では、ジョバンニは明らかに、ドンナ・エルヴィラという個人の顔をもった女性と対峙している。彼女は、ジョバンニに誘惑された後で棄てられた2065人(!)の女性のワン・オブ・ゼムというだけではなく、ジョバンニとの悲劇的関係において彼と対をなしている。ちょうどレポレロが、ジョバンニと喜劇的役割分担をしているように。


ドンナ・エルヴィラは、「結婚しよう」という口説きに応じた三日後にジョバンニに棄てられた。狂乱して彼を追うが、ジョバンニが偽りの「反省」を口にするや、たちまち彼の魅力の虜になってしまう。変装したレポレロをジョバンニと思い込み、「私の夫です、皆さん許して」と周囲に対してジョバンニを擁護し、大恥もかく。そこまで裏切られた彼女だが、最後にジョバンニ家を訪れて、「生き方を変えなさい」と彼を諭す。愛を断念して修道女になろうとするエルヴィラの孤独な歌は、かぎりなく崇高に聞こえる。キルケゴールの言うように、ジョバンニは個体としての女性ではなく、女性全体を愛するのだとしても、その抽象的な主体性を無に帰すだけの力を、エルヴィラは持っているのではないか。そしてそれもまた音楽の力なのではないか。ボードレールは、ワーグナーの『タンホイザー』における「欲望の対象=ヴェーヌス」の抽象性と対比して、ジョバンニの女たちの具体性に注目していたそうだ(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』)。たしかに、ツェルリーナ、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィラという三人の女性は、皆それぞれに強烈な「現実性」を感じさせる。


今回の公演は、暗い舞台全体を大きな三枚の鏡で取り囲むという前衛的な演出が成功している。くすんだ鏡なので、そこに映る人物の後姿はあたかも陰影のようだ。そして、白、赤、黒の衣装の中で、ドンナ・エルヴィラの緑色がひときわ浮き立つ。彼女を好演したアンナ・ヴィエルビツカは、2002年声楽科卒とある若い人だ。『フィガロ』の伯爵夫人が当たり役というから、ドンナ・エルヴィラにも適役なのだと思う。


[PS:事務連絡をすみません。九州大学の集中講義の学生さんへ。レポートのレスは、ブログではなく、研究室へメールで送りました。]