映画『恋人たちの失われた革命』

charis2007-01-19

[映画] フィリップ・ガレル監督『恋人たちの失われた革命』 東京都写真美術館


[写真は、主人公のフランソワとリリー。]


「68年パリ五月革命」を主題にした青春映画。原題『Les Amants Reguliers』は、「きまじめな恋人たち」という意味なのだろうか。2005年ヴェネツィア映画祭銀獅子賞の作品だそうだが、私には、40年もたってなぜこのような映画が作られなければならないのか、その必然性が理解できなかった。ただし、モノクロの映像に何ともいえない味わいがあり、映画表現という点では、いくつもの興味深いシーンがある。


68年5月、20歳の詩作好きな学生フランソワはパリのカルチェ・ラタンの闘争に参加する。バリケードを築き、自動車を燃やし、機動隊が突入するシーンだが、人影のほとんどない砂漠のような荒涼とした深夜の空間になっている。実物のニュース映像ではなく、ロケでカルチェ・ラタン攻防戦を作るのはやはり難しいだろう。学生たちも舞台衣装をしていたり、機動隊は照明弾を打ち上げるのだが、何とも動きが牧歌的かつコミカルで、全体にシュールというか現実感が湧かない(これはこれで面白い映像だが)。結局、政権は倒れず、労働者は賃上げ闘争に傾き、「革命」は挫折する。フランソワたち運動仲間は、金持ちの息子の家に集まっては議論するのだが、無力感と倦怠感が色濃く支配し、ドラッグで鬱憤をはらすことになる。


フランソワはそこで、彫刻家の卵である美大生リリーと出会い、二人の恋愛の進行と挫折が物語の中心をなす。ほとんど何も出来事らしい出来事は起こらず、若い男女の顔のアップと、切れ切れの会話がボソッと交わされるだけのシーンが、延々と3時間続く。リリーは最後に、金のあるパトロンを追ってニューヨークへ去り、失恋したフランソワは睡眠薬自殺して終る。若者の顔のアップと短い科白から映画を作る手法は、ベルイマンブレッソンなどの傑作に前例があるが、フランソワとリリーたちの暗い淡々とした会話だけでは、さすがに退屈してしまう。青春映画なら、もう少し”輝き”のようなものがほしい。


フランソワを演じるルイ・ガレルは監督の息子で、1983年生れの非常な美形。ジャン=ピエール・レオに顔立ちも雰囲気も似ている。考えてみれば、レオを主人公にしたゴダールの『男性・女性』(1966)も、反戦運動をするパリの若者映画だった。ゴダールの『中国女』(1967)は、マオ派の若者が教室を占拠する「ままごとのような革命」映画だったが、「五月革命」を先取りしたところが凄い。これらの映画には、何か祝祭のようなものが発する”煌き”があった。だがガレルのこの映画には、たとえ架空のものであれ、祝祭の喜びが欠けている。題名の意味はよく分からないが、「きまじめな若者たち」への挽歌であるならば、もう一工夫あってほしい。