ジャン・アヌイ『ひばり』

charis2007-02-24

[演劇] アヌイ『ひばり』 蜷川幸雄演出 渋谷コクーン
                     
ジャン・アヌイの代表作の一つ(1953年作)で、ジャンヌ・ダルクの物語。ジャンヌ・ダルク裁判については、ドライエル『裁かるるジャンヌ』とブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』という名作映画があり、また、アヌイの演劇作品『アンチゴーヌ』もこの『ひばり』と重なるテーマをもつ。何よりも、アヌイの特徴である言葉の美しさが際立つ劇だ。舞台はジャンヌ裁判の法廷。しかしその中でジャンヌの過去が再演される。戦闘場面は皆無で、3時間半のほとんどをテンションの高い対話が構成する。科白のほぼ半分を一人でしゃべるジャンヌ役の松たか子が素晴しい。(ポスターと違い)ぎりぎり短髪にして(写真、左)、灰色のトレーニングウェアで走り回る彼女は、少年のように美しい。


劇は、「フランスを救え」という大天使ミカエルのお告げを心中に聞き、「私にそんなことはできません」と悩む15歳の少女から始まる。決意した彼女を「気が違った」と止める両親を振り切り、近郊の武士を口説いて馬を調達し、そして王大子シャルルを説得して軍勢を調達するジャンヌの「説得活動」が劇の前半だが、その対話の中身が魅力的だ。彼女は精神分析医のような語りによって、心中の奥深くに「コンプレックス」を抱える武士や王の心を開いてゆく。「恐怖」を本番の戦いの前に徹底して体験するのよ、そうすれば「恐怖」から自由になれるわ、あなたは本当は弱虫じゃないのよ、と。ジャンヌ・ダルクは史実であり、民衆操作のためのアイドルとして権力者が利用したという面はあるにせよ、ジャンヌ自身が人を引き付ける語りを持っていたことは事実だろう。「神がかり」ではあるが、精神分析的に「核心を突く」語りなのだと思う。ジャンヌ・ダルク裁判は詳細な尋問記録が残っており、「お前に神の恩寵はあるのか?」と尋問されて、彼女は、「もしあるならそのままに、もしないならば、いただけるように」と見事に答えている。恩寵の有無は人間には知りえないことになっているので、「ある」と答えても「ない」と答えても異端になるが、字も書けない彼女はジレンマをするりとパスしてゆく。裁判は、「聖女」か「魔女」かを判定するために、第一線の神学者たちを集めて精妙な質問をジャンヌにぶつけた。裁判記録を読むと、彼女が「運命と自由意志」の問題に特別に鋭い直観を持っていたことが分かるが、アヌイの劇では、それが日常生活でどう活用されたかを連想させる。


劇の後半は、戦いに敗れてイギリス側に捕らえられたジャンヌの宗教裁判のやり取り。もっとも興味深いのは、「本当に恐ろしいのは悪魔なんかではなく、人間だ」という上級異端審問官の根本認識だ。さすがにカトリック教会は奥が深い。ジャンヌ裁判は、彼女を殉教者にしてフランス民衆を激高さないようにという、政治的配慮を背景に、教会の尋問は「彼女自身に罪を認めさせる」ことに全力が注がれる。「ジャンヌよ、自分の罪を認めて<はい>と一言いえばよいのだ。お前は、火刑を免れ、静かに余生を過ごすことになる。私たちはお前を救いたいのだ」と、司教は執拗に迫る。この緊迫したやり取りは、『アンチゴーヌ』におけるクレオンとアンチゴーヌの対話とまったく同じだ。このような最後の最後の地点で、人間は「ノーと言える」というのが、アヌイの一番言いたかったことだろう。『アンチゴーヌ』(1944)はドイツ占領下で上演され、「ノン」というアンチゴーヌの祈りのような叫びに、フランス人観客は涙したはずだ。このジャンヌも、自由意志の主体という点ではアンチゴーヌとまったく同じだ。違うのは、神そのものではなく教会という「人間の制度」が究極の拠り所であると自覚しているカトリック教会の凄さだろう。ジャンヌと審問官のやり取りを聞いて、私は哲学者オースティンの「パフォーマティブ・アテランス」を思い出した。「はい」か「いいえ」かを言うことは、事実を追認することではなく、それ自体が人間のもっとも深い意味で行為の開始なのだ(デカルトの『省察』にも似た洞察がある)。「自白調書」「自己批判書」を本人に署名させることによって、暴力よりもずっと巧みに、人間は人間を支配することができる。「だって、君自身がそう言ったじゃないか!」と言えば、相手は抵抗できない。


ジャンヌは、いったんは審問官に負けて罪を認める文書に署名するが、事後に撤回して、結局、火刑になる。ここまでは史実だが、アヌイの劇は違う。火刑の途中で、突然、彼女の人生を再現する法廷には「シャルル王の戴冠」場面が抜けていたという異議が出される。手続きに欠陥があったがゆえに裁判は無効になり、火の中からジャンヌは下ろされ、シャルル王の戴冠式が演じられて終幕。最後は喜劇ともいえるが、現実を再演する法廷が否定されて現実へ帰るという、劇中劇をひっくり返すメタ構造が巧い。そして、「ノンを言える」人間の自由意志の勝利という「神学的内実」も十分に備えた劇になっている。役者は、松たか子の他では、上級異端審問官を演じた壌晴彦が特に良かった。