永井均『西田幾多郎』(4)

charis2007-03-05

[読書] 永井均西田幾多郎』(NHK出版)


永井氏によれば、西田はウィトゲンシュタインとは逆に、経験は言語とは独立にそれだけで意味を持ちうると考えていた。西田が「純粋経験」を語る言語は、経験の外部から手に入れたのではない。「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していた」のだ(p47)。「与格としての私」「場所としての私」という出発点から、言語は分節されながら生成する(p58-65)。これが「場所の論理学」と呼ばれるものであるが、これは興味深い論点なので、少し考えてみたい。


言語のもっとも普通の形は、主語−述語からなる「SがPである」という判断である。たとえば、ある知覚経験を表す「このバラは赤い」という判断では、個物が主語になり、一般的な性質が述語になっている。しかし考えてみれば、こうした知覚経験の表現が、なぜ、主語・述語という形式を持つのだろうか? 西田は、主語や述語は経験の外部から自由に借用できる自明な前提であり、それを結合すれば判断が成立すると安易に考えはしない。主語や述語は、「場所の自己限定」「場所の自己運動」によって分節が生じ、そこに初めて生まれてくるものなのだ(p64f)。西田はあくまで、厳密に「場所としての私」から出発する。「場所としての私」を真の出発点とみなす場合、この唯一の存在である「場所としての私」は、何か一般者の一例になるようなものではなく、ただ「ここ!」「これ!」「このとおり!」「こうなっている!」としか言いようのない個体性そのものだからである。「SはPである」という判断は、Sという個体をPという一般者の一例とみなすことだから、Pは一般者でなければならない。しかし個体である「場所としての私」には、「赤い」とか「痛い」のような「どのようだ」という一般者(=述語P)は、まだ存在していない。


「場所としての私」は、主語と述語に分節する以前の、両者が一体となったものである。しかしそれは普通の主語と述語ではなく、西田の用語では、「超越的主語面」と「超越的述語面」の一致である(63)。「超越的主語面」とは、「個物を規定するための一般概念(つまり述語)の数が無限大にまで増大して、あらゆる<一般的なるもの>を内包したもの」(62)である。ラッセルの「確定記述」のように、ある個体のもつ述語をたくさん挙げれば、固有名詞なしにも、その個体を指示できるが、この方向を極限まで徹底したのが、「超越的主語面」である。また、もう一方の「超越的述語面」とは、個体から一般的なものの方向へ進んだ場合の極限に位置するものである。たとえば、「永井均」→「千葉大学教員」→「日本人」→「人間」→「生物」→・・・→「存在者であるかぎりの存在者」という系列を極限まで進んだところにある、全存在者を内包する究極の一般者である。


このように見ると、究極の個体に至ろうとして、無限数の述語によってあらゆる一般者を内包する「超越的主語面」と、究極の一般者に至ろうとして、全存在者を内包する「超越的述語面」とは、一致することが分かる。これが「場所としての私」であり、それは「何ものの一例でもなく、ただ端的にそうあるだけである」(63)。そして、もしこのように一致している「超越的主語面」と「超越的述語面」が少しでもズレるならば、そこに主語と述語という区別が発生する。つまり、より一般性の低いものが主語に、より一般性の高いものが述語になり、「この人は千葉大学教員である」「このバラは赤い」「人間は生物である」といった通常の判断が生まれる。このように、言語を「私」の外部に前提するのではなく、「私」の構造的分節として言語の発生を論理的に説明するのが、西田の「場所の論理学」なのである。永井氏の適切な表現を借りれば、「この議論の肝(きも)は、色なら色の、実存と本質が、つまり生(なま)の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。」(65)