『テヘランでロリータを読む』(1)

charis2007-03-17

[読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊)


優れた本なのでコメントしたい。1995年のある日、イラン人の女性英文学者である著者アーザル・ナフィーシーは、テヘランの自宅に優秀な女子学生だった教え子たちを集めて、ナボコフ『ロリータ』やオースティン『高慢と偏見』などの秘密の読書会を始めた。ナフィーシーは、テヘラン市長の父やイラン初の女性国会議員だった母をもつエリート家庭の出身で、13才からヨーロッパやアメリカで生活し、アメリカで博士号を取って、20代の末にテヘラン大学の英文学の専任教員に迎えられた。それは、1978年のイラン革命直後、1979年のことである。リベラルな彼女は、イスラム原理主義が支配する中で英文学を講じてきたが、1981年、ベールの着用を拒否してテヘラン大学を追放された。それ以降、他大学に移り英文学を教えたが、1995年にイスラム原理主義の抑圧に抗議して大学を辞職し、自宅で始めたのがこの読書会である。イランでは西洋近代文学は「退廃文化」として敵視されているので、この読書会そのものが危険な試みであった。読書会は2年間続いたが、ナフィーシーは97年にアメリカに移住し、現在はジョン・ホプキンズ大学教授である。


本書の目次は、ちょっと変わっている。「第1部:ロリータ、第2部:ギャツビー、第3部:ジェイムズ、第4部:オースティン」。これだけでは何のことか分からない。それぞれ、ナボコフ『ロリータ』、S.F.フィッツジェラルド華麗なるギャツビー』、ヘンリー・ジェイムズジェイン・オースティンのことである。しかし、目次のこの構成は本書の本質に関わることが、読み進むうちに分かる。まず『ロリータ』であるが、いやらしい中年男が12歳の少女を陵辱する不愉快な物語を、なぜテヘラン若い女性たちが必死の思いで真剣に読んで議論するのか、その理由を知って我々は衝撃を受ける。『ロリータ』は奥行きの深い文学の傑作であり、「他人を自分の夢や欲望の型にはめようとする」(p52)我々人間の深い病理を告発しているのだが、女性を一定の型にはめようとするイスラム原理主義の抑圧を受けるイランの知的な若い女性にとって、ロリータは自分たちの姿と重なるのである。


華麗なるギャツビー』は、20世紀のアメリカの作家の作品だが、これを教材に使ったナフィーシーに対して、授業に出ている男子学生たちから「退廃文学」だという厳しい批判が上がった。それでナフィーシーは、この本そのものを被告として(!)、授業の中で模擬裁判を行う。イスラム革命の理想に燃える男子学生を検事に、この作品を擁護する女子学生を弁護人にして行われる「ギャツビー裁判」は、女子学生の圧勝に終わり、「不倫する女性が登場する文学は悪い文学だ」と主張するイスラム派学生は、「文学を理解できない馬鹿者」として笑い飛ばされた。しかし、この「勝利」は危険な「勝利」でもあった。多くの教授たちが「退廃文学」批判を恐れて無難な教材に変更し、学内はイスラム急進派学生による「退廃思想教員」の密告と大学による解雇が横行していたからである。


ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』『ワシントン・スクエア』などもナフィーシーの授業の教材だが、これをテキストにするだけで、社会の慣習に捉われず自由に振舞うヒロインに対する、学生たちの賛否両論と激しい思想闘争が巻き起こる。そして、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』。ナポレオン戦争にヨーロッパ中が沸いているさなかに、ひたすら女の子たちの日常生活と恋愛だけを描き続けたオースティンは、イスラム派急進学生からは「革命という大切な時期に、くだらない恋愛話にうつつをぬかす」反動作家と受け止められた。だが、内容をじっくり読んで理解が深まるにつれて、『デイジー・ミラー』や『高慢と偏見』は、深いイスラム信仰を持つ女子学生たちさえも深く魅了してしまう。イスラム信仰を持ち、イスラム革命に賛成した多くの女子学生たちが、自由なヒロインの魅力とイスラム信仰の間に引き裂かれて悩む、その内面の葛藤が、丁寧に繊細に描かれる。ナフィーシーは、まさにそこに「文学の深い力」を見出すからだ。彼女の文学観については、次回に。