『テヘランでロリータを読む』(2)

charis2007-03-18

[読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊)

(写真は、本書の中国語訳、イタリア語訳、そして著者近影)


本書には、ナフィーシーの教え子たちがたくさん登場する。男子学生はほとんどがイスラム主義の活動家だが、女子学生は出身階層も思想もかなり多様だ。イラン革命は最初からイスラム主義一色だったわけではなく、西洋近代主義を目指す党派や、モジャヘディン・ハルクのような左翼も含めて、多様な潮流がテヘランの各大学で激しく覇を競っていた。ナフィーシーと彼女の授業に出た学生たちは、そうした革命の喧騒と興奮のるつぼの中で一緒に「文学を読む」ことになった。そこでは、「文学を読むこと」自体が政治的な意味をもつ痛切な体験であった。


第3部の25、26節は、女子学生ラージーエの想い出に捧げられている。「やせぎすの小さな体、細い顔、梟のような、あるいは物語の中の子鬼のような大きな目をした」(p307)ラージーエは、当時まだ20歳にならず、貧しい母子家庭の出身だが、クラスメートから尊敬と信頼をよせられていた。モジャヘディンの活動家だが、そのスローガンには疑念をいだいていた。街頭デモで逮捕され処刑された彼女だけが、ただ一人本書で「本名」を書かれるという皮肉(p306)。他はすべて本書刊行による危険を避けるために偽名である。女子学生のほとんどが、教師の講義を正確に暗記し復唱はできるが自分の意見は言わない(p304)のに対して、彼女は珍しく自分の考えを言う学生であった。ヘンリー・ジェームズ『ワシントン・スクエア』のヒロイン、キャサリンを彼女は好きだと言った。「この革命の時代に、19世紀末の不美人で金持ちのアメリカ娘の試練と苦しみに[あなた方が]興味をもてなくても無理はないわね」と問うナフィーシーに対して、ラージーエは熱烈に異議を唱えた。「こういう革命の時代だからこそいっそう興味をもつんです。裕福な人たちはいつも、自分より恵まれていない人間は上等なものをほしがらない、いい音楽を聴いたり、おいしい料理を食べたり、ヘンリー・ジェームズを読んだりしたがらないと思ってますけど、私にはその理由がわかりません。」(p305)


その他のナフィーシーの教え子では、印象的な一人として、読書会の中心メンバーの一人であるマフシードがいる。彼女は32歳で独身、両親の家に住んでいたが、後年、優秀な編集者となる人である。マフシードは敬虔なイスラム信仰をもっているが、イラン革命はむしろ彼女に大きな苦しみを与えた。ナフィーシーの読書会では、イランを棄てて国外へ出たいというメンバーと、国内に残らざるをえないメンバーとの間で、葛藤に満ちた議論が戦わされる。マフシードは国内派だが、誰よりも冷静で知的で礼儀正しい彼女は、国外脱出派が口にした「あなたは自分の信仰でベールを被ってるんだから、いいわよね」という嫌味に対して、珍しく興奮し、「信仰をとったら私に何が残るというの、それをなくしたら・・・」と叫んで絶句する。しかし彼女こそ、読書会の共通日記には、次のように書いているのである。「ヤーシー[メンバーの一人]も私も、自分が信仰を失いつつあるのを知っている。ことあるごとに信仰に疑問を抱きつづけてきた。[革命前の]シャーの時代はちがった。私は自分が少数派であり、あらゆる困難に抗して信仰を守らなければならないと感じていた。しかし、私の信じる宗教が支配権を握ってからは、むしろ無力感、疎外感がかつてないほど強まった。・・・イスラームの支配! それは偽善と恥の見世物だった。女性はヴェールを着用しているけれど、ヴェールは、女性がその後ろに隠れるように強制された仮面なのだ。」(p450) (続く)