ナボコフ『ロリータ』

charis2007-04-08

[読書] ナボコフ『ロリータ』(若島正訳 新潮文庫、2006年11月)


(写真は、1987年、全日空の「スポーツ・リゾート沖縄」キャンペーンのポスター原画。野生的で少年のような顔と、やや直線的で二つの三角形を思わせる幾何学的な身体構図は、いかにもスポーツ美の表象。モデルは石田ゆり子。)


ナボコフの『ロリータ』は、主人公ハンバートの倒錯的な少女愛で有名になったが、実はきわめて多層的で、含意の豊かな面白い文学作品である。全編に張り巡らされたフロイトへの揶揄、ギリシア・ローマを初めとする西洋古典の目のくらむような引用やもじり、アメリカ大陸を横断するロード・ノヴェル、そしてミステリー小説としての醍醐味など、興味は尽きない。しかしとりわけ印象的なのは、ジョン・アップダイクが「うっとりとさせる模範的散文」と呼んだ、その散文の描写力である。一例として、14歳のロリータがテニスをするシーンを引用してみよう。スポーツする身体の美しさを、ナボコフは言葉によって“幾何学的”に描写する。そこには、上記の“幾何学的”写真表象に劣らない言葉の力がある。


>年齢が加わっても、杏色の手足をして、ローティーン用のテニスウェアを着た彼女は、以前にも増してニンフェットらしくなった。翼を持った紳士のみなさん! ・・このコロラドの保養地にいたときの彼女を、そっくりそのままで、すべてを正しく再現してくれないとしたら、どんな来世も私には受け入れられない。ゆったりした白い少年用のショートパンツをつけ、ほっそりした腰、杏色のみぞおち、それに白い胸当てのリボンが首を巻いてから結んで後ろに垂らされ、そこに剥き出しになった思わず息を呑むほど若くてすばらしい杏色の肩甲骨には生毛がはえ、すてきなやわらいかい骨で、そこからなめらかな背中が下に向かうにしたがって細くなる。かぶっている帽子には白いひさしが付いている。(p408)


>彼女のテニスは、想像するに、若い娘が到達しうる舞台芸術の極致だったが、きっと彼女にとっては、それが根本的な現実の幾何学そのものだったはずだ。(409)


>彼女の動作のすべてのあざやかな明晰さは、聴覚面では、ストロークを打つたびのすみきった音となって現れていた。彼女の支配領域に入ったボールはなぜかいっそう白くなり、その弾力性もなぜかいっそう豊かになり、彼女が用いる精密な器具は、ボールに吸いつくように接触するその瞬間、異様なまでに緩慢で把握力を持っているように見えた。・・・我がロリータには、ゆったりと弾みをつけてサーブを開始するとき、曲げた左膝を上げる癖があり、そこで一瞬のあいだ、爪先だった脚と、まだ毛もほとんど生えていない腋の下と、日焼けした腕と、後ろにふりかぶったラケットとのあいだに、いきいきとしたバランスの網目が陽光の中で張りめぐらされ、彼女がにっこりして歯をきらきらのぞかせながら上を見上げると、高い天空には小さな球体が宙に浮き、そこは、黄金の鞭で快音響く一撃を加えようという特別な目的で彼女が作り上げた、力と美にあふれる小宇宙なのだ。(410)

[あふれる陽光、青空に浮いて一瞬止まるボール、待ち構える彼女の笑顔、反り返る白いテニスウェアの身体・・・、ナボコフの言う「根本的な現実の幾何学」の美。ロリータは美女ではないが、とりわけ美しく描かれるのが、身体=幾何学になるこのテニスシーン。]