黒テント『かもめ』

charis2007-04-28

[演劇] チェホフ『かもめ』 劇団・黒テント公演 神楽坂・iwato劇場


(写真下は、1889年、モスクワ芸術座『かもめ』公演。左はニーナ。右はトリゴーリンを演じるスタニスラフスキ。)

チェホフ劇の登場人物はみな、自分の悩みを聞いてもらうことには熱心だが、人の話は聞いていない。そうしたジコチュー人間ばかりの悲喜劇なので、俳優も舞台で精一杯自己主張する。今回の公演も、役者の声量や身振りのエネルギーが、小さな「iwato劇場」に溢れんばかりにむせかえっていた。見た限りでは、客席は14人×7列だったから、観客100人弱の小さな空間だ。その空間と釣り合う演技という意味で、アルカージナ(横田桂子)、コースチャ(足立昌弥)、マーシャ(森智恵子)、ドールン(久保恒雄)などが良かったと思う。しかし、やや演技過剰な役者もいた。演出の斎藤晴彦がトリゴーリンを演じているが、これはどうなのだろうか。斎藤は劇団・黒テントの中心となる名優だが、アルカージナの愛人たるトリゴーリンを演じるには、あまりにも「枯れすぎて」いる。どう見ても好好爺なので、ニーナとのラブシーンにリアリティがない。ニーナよりも60歳くらい年上?


今回見て思ったのは、チェホフはやはり「新劇の中の新劇」であり、最高の演劇であるだけに難しいということだ。英訳者のマイケル・フレインが言うように、『かもめ』は人間関係がすべて一方的で、相思相愛の相互的関係がない。凡庸な教師メドヴェジェンコは妻のマーシャを愛し、マーシャは青年コースチャを愛し、コースチャは少女ニーナを愛し、ニーナは作家トリゴーリンを愛し、トリゴーリンはコースチャの母アルカージナを愛するという、「愛情の飢え」によって人々は一応繋がっているが、しかしどの愛も不完全燃焼で、本物の愛には昇華しない。こうした「愛の不可能性」を正面から見つめる視線こそ、チェホフが百年たっても我々を深く魅了する理由なのだと思う。


しかしそうはいっても、第四幕で、嵐の中を戻ってきたニーナがかつての恋人コースチャと交わす会話は、胸を引き裂かれるような美しさがある。「私はかもめ、・・・いいえ、私は女優」というニーナの叫びは、たとえ三流役者の強がりであったとしても、彼女が「自分の道を見つけた」ことに意味がある。対照的にコースチャは、作家として一定の成功を収めたにもかかわらず、自分の道を見つけられずに絶望して自殺する。「撃ち落されたかもめ」は、結局、ニーナではなくコースチャだったというアイロニー。この第四幕の美しさと悲劇性が、第三幕までの過剰にコミカルな演技によって対照的に浮かび上がるという点では、今回の公演は成功している。