フォッセ『死のバリエーション』

charis2007-05-26

[演劇] ヨン・フォッセ『死のバリエーション』三軒茶屋・シアタートラム


ヨン・フォッセは1959年生れのノルウェーの作家(写真右)。戯曲はヨーロッパで人気を博しており、今回の上演も、フランス人のアントワーヌ・コーベによる演出。今までに一度も見たことのないタイプの演劇だが、何ともいえない衝撃を感じる。ほとんど真っ暗な舞台に人が通れるくらいのスリットが三つあり、このスリットの奥は明るく、ここから人が出入りする。装置も小道具も一切なし。登場人物には名前がなく、舞台上では一度も名前が登場しない。時代も、場所も、職業も、年齢も分からない。年取った女が、娘が死んだことを告げに、今は別れて暮らしている年取った男(元の夫)のところへやってくる。娘の死を二人は受け入れることができず、二人の会話はかみ合わない。二人が娘のことを回想するうちに、若者だった頃の二人が舞台に加わり、回想を実演する。妻は妊娠しており、やがて娘が生まれる。若者の二人は貧しいが、希望に満ちている。が、当時から二人の会話は奇妙にすれ違っている。次に、娘が高校生くらいになった時点に変り、その時点での、娘、母、父のぎくしゃくした会話が再演される。男は家を出て、別の女と暮らしている。娘は引きこもりがちで、友達もいない。架空の恋人と淡い恋が芽生えるが、それもぎくしゃくした一方通行の関係だ。そして、最後にやっと恋らしくなった時点で、娘は海辺で自殺して終わる。しかし娘はぽつりと、「自殺を後悔している」とも語るから、死者として”そこにいる”ことが最後に分かる。


年取った二人、その二人の若い頃、彼らの娘、架空の恋人の計6人が舞台に同時に現れるから、現在と過去、現実と虚構、生と死が”同時にそこにある”ことが、いわば劇の主題になっている。「あの子はもういない」ことを年取った二人が受容できないのは、過去が現在の中にあるからだ。存在するものが存在しなくなることを理解するのは本当は難しい。というのも、「存在する」ということで我々は、「ある時、ある場所に、存在する」ことを考えるからだ。死者もまた、死んだからといって、彼/彼女が生きているときの「その時、その場所に、存在する」ことをやめるわけではない。将来、人類が滅亡したとしても、我々の一人一人が「今、ここに、こうして存在している」ことが、”遡って取り消される”わけではないように。


この劇では、登場人物たちが、繰り返し「一人でいたい」と語る。これは痛いほどよく分かる。しかし「一人でいる」ことは、ほとんど背理に近い。「一人でいる」=孤独であるのは、「自分が存在して、しかも他者が存在しない」状態だ。しかし死は、「自分は存在しないが、他者が存在する」状態だ。だから、この劇のように、生と死が”同時にそこにある”状態においては、「一人でいる」ことは途方もなく難しい。この劇でもっとも感動的だった台詞は、娘が最後に言う言葉。「こんなこと[=自殺]するんじゃなかった、ああ、私は一人でいたい。」死は孤独を不可能にしてしまったのだ。


フォッセの劇の特徴は、登場人物たちが”詩を朗読するように語る”ことだ。これはとても面白い。台本から少し引用してみよう。以下、「/」は改行を示す。彼の文章には句読点がないのだ。


娘 : あなたの手/わたしに合図する/遠くで/虚空をつかむ/わたしはふちに近づく/そこでじっと/海をみつめる/あなたの手が/わたしにかかるまで/髪にふれるまで/気づかないほどそっと/まるで闇夜みたいに/あなたの手が髪をなでる
年取った女 : それから/ええ/ええなにがあったか誰にもわからない


フォッセの別の戯曲『ある夏の一日』の冒頭はこうだ。とても美しい。
年配の女 : 行くの
年配の友人 : ええ 散歩にでも行こうかと思って/下のフィヨルドへ/とってもきれいだから/海は/なんて美しい/夏の日/それに彼が私を迎えに来るまでま/だ少し時間があるわ/彼はそう町で/なにか用事があるの
年配の女 : そう
年配の友人 : 一緒に来ない
年配の女 : いいえここに居るわ/(短い間。窓の方へまた身を向ける)
年配の友人 : (笑う)/そこにずっと立って/窓の外を見ていたいのね/またしても/あきないの/あなたのことを考えると/言っておきたいのだけれど/いつもあなたはそこの窓に立って/そうやって海を見ているのよ