ミリカン『意味と目的の世界』(2)

charis2007-06-04

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


(写真は、原書Varieties of Meaning,2004の表紙。ミリカン自身の顔写真が使われている。顔写真の表象性は本書の主題とも直結しており、この顔をルース・ミリカンと知らない人は、「年配の女性の顔」という一般的な情報しかそこに見て取れない。)


[承前] では、ミリカンの記号論では、写真はどのような「表象」や「記号」であるのか? 写真ではない普通の実物知覚と対比すると分かりやすい。私が何かを「見る」とき、私の網膜像には、私自身と外界との時空的関係という情報が表現(表象)されている。私は「今ここにいる」から、眼を開ければ世界に一つしかない”この光景”が見えるわけで、何月何日何時何分に私の眼は地球のどこそこに存在するという情報を担う記号が、私の網膜像である。そしてこの意味で、私の網膜像のパターンは、世界に一つしかない個体的なものである。


ところが、写真はそうではない。ミリカンは言う。「網膜像と違って、写真は、ある局地的記号領域として考えられるとき、いかなるものの時刻と場所にかんする情報も含んでいない。たしかに、それはふつう、<かつてある空間的配置sが、ある時刻tにおいて、あるカメラcの前にあった>という情報を含んでいる。しかし、この種の情報は、それ単独では、まったく一般的な情報である。」(p75) たとえば、隣に住んでいる男の子ジョニーの写真を見るとき、私は、それがジョニーであり、いつどこで撮ったものか分かる。しかし、ジョニーを知らない人には、その写真は、「ある男の子が、ある道端に立っている」写真という一般的な情報しか語らない。写真の男の子が、今「この写真」を見ている私とどのような時空的関係にあるかを、”隣家に住む”私は知っているが、一般の人は知らない。つまり、これが「何の」写真であるかは、「この写真」という物体を手にしている私が、写真の中身に対して”時空的追跡ができるかどうか”によって違ってくる。この写真が「何の写真」であるのか、つまり、この写真が何を「表象(表現、指示)する」のかを決めるのは、写真を見る私と写真の対象との時空的追跡可能性である。


「時空的追跡」という概念は、ミリカンの記号論のポイントである。今引用した「局地的記号領域」という語や、前回見たように、ガンが空を飛ぶのが「局地的反復記号」であるという言い方から分かるように、我々自身がそのつど時空的なある位置に縛り付けられていることが、私と外的対象との世界に一つしかない(=個体的な)時空的関係を作り出しており、私がこの関係を追跡できることが、記号のもつ表象性(表現性)の起源なのである。それが「誰の写真」であるかは、写真とは別のところから、個体指示を含む情報を補わなければならない。そして、この個体指示は、今ここにいる私が、対象に対して時空的追跡が可能であるという関係によって成り立っている。たとえば、上記の本の表紙の顔写真がルース・ミリカンであると知ることによって、日本人である私は、ここにある「この写真」から、地球の裏側のコネティカットに住んでいる彼女に向けて時空的追跡関係を持つ。それゆえ、これはたんに「ある年配の女性の」写真ではなく、「ミリカンの」写真なのである。


写真それ自身は本来、個体情報を持たない表象である。ミリカンはそれを面白い例によって示す(p76)。何十万部と発行されているニューヨークタイムズの紙面のある部分を撮影した写真があるとしよう。それが、ニューヨークタイムズの特定の日の紙面であることは、その写真から分かる。しかし、同じ紙面の新聞冊子が何十万部もあるのだから、その写真は、私の家にあるニューヨークタイムズの「この冊子」なのか、隣家にあるニューヨークタイムズの「あの冊子」なのかについては語っていない。つまり、一般的な情報しかその写真は表象(表現)していない。対象の直接の知覚が「記号」であるのに対して、写真、テレビ、鏡のような表象は、「記号の記号」である。「記号の記号」を考察することが、記号の表象性(表現性)に含まれる時空的追跡関係をかえって明るみに出すところが、ミリカンの考察の面白いところといえる。


以上から分かるように、我々に、有名人の写真やテレビ画像を「○○氏の」画像として見ることを可能にしているのは、「この写真」という物体を手にした私が○○氏と時空的追跡関係を持つからである。ここから、なぜ動物は写真、絵、鏡などにほとんど関心を示さないかが理解できる。一般的な情報と個体的な情報とを区別し、その区別を必要としているのが、まさに人間なのだが、それと対照的に、ほとんどの動物は、一般性と個体性が融合したままの世界を生きている。犬などは飼い主の個体性を認識しているが、しかし、飼い主の写真が飼い主を「表象する」ことは分からない。だから、飼い主の写真を情報価値のある表象として利用することができないし、その必要もない。[続く]