ミリカン『意味と目的の世界』(5)

charis2007-06-13

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


(写真はスーザン・ブラックモア『ミーム・マシン』の表紙。ドーキンスの「ミーム」を無批判に賛美したとミリカンは批判する(p23)。)


ミリカンは、第2章「ミームの目的とその食い違いPurposes and Cross-purposes of Memes」において、「ミーム」について論じている。ドーキンスの創案になる「ミーム」とは、文化現象の増殖をウィルスや遺伝子と類比的に扱う”あぶない”概念なのだが、ミリカンはなぜ「ミーム」に着目するのだろうか?


ミーム」とは、「模倣によって」複製され、人から人へ受け継がれるものを言う。ドーキンスによれば、ファッション、思想、価値、言葉などは遺伝で伝わるのではなく、人間が模倣することによって伝達され増殖する。そして、人間の模倣活動は時間空間的に有限な条件で行われるから、「複製を求めて互いに競合する」という点で、遺伝子の生き残り競争と類比的だという(p22)。たとえば、思想Aは、それを著した本が印刷され、売れ、読まれ、読んだ人がそれを口コミで広め、また本が売れるといった「複製活動」「模倣活動」によって「ある時代を風靡する」。特定の思想やファッションは遺伝子によって次世代に伝えられることはない。しかし、「眼の前に現れたものを模倣する」「流行っているものを自分に取り入れる」という性質は、遺伝子によって人間に深く刻印された性質である。だから、ある文化生産物が時代を超えて受け継がれるのは、「模倣する動物」としての生物学的性質も関わっている。「他人と同じように行動する」人と、「わが道を行く」人とでは、後者の方がたぶん子孫を残す確率が少ないので、前者がヒトの進化の過程で優勢になったのだ。


ミリカンが「ミーム」に着目するのは、「模倣活動」が、人間の生物学的性質と社会的・文化的活動を繋ぐ進化論的位置にあると考えるからである。「模倣活動」すなわち「まねる」ことは”合目的的活動”であり、因果関係ではない。たしかに、模倣の前提である知覚には因果関係が含まれるが、「まねる」ことの本質はそこにあるのではない。「まねる」前のあるものと、「まねる」ことによって生まれた複製物との間に、規則的な類似性が成り立ち、この規則的類似性によって、一つの複製物は、”他の多くのものの一つである”という「意味を帯びる」。つまり、「まねる」ことは意味的な関係を生み出すというのが、「まねる」ことの本質であり、「まねる」ことは、まさにそれ自身が記号を生成することなのである。たとえば、街なかで見かける流行の服は、「どうです、私はセンスのよい人間の一員でしょう?」と、問わず語りに我々に語りかける記号なのだ。このように、人間の遺伝的特性である「模倣性」は、社会的・文化的な記号を生産し増殖させる。


ミリカンは、「ミーム」を無批判に広げるのではなく、「ミーム」の重要な機能として二つの例を強調する(p27)。一つは、幼児の言語習得。もう一つは、「他人と同じように行動する」という社会的協調をもたらす性質である。新生児が日本語を話すか英語を話すかは遺伝的に決まっていないが、生まれるや否や数ヶ月の内に耳に入る音韻構造を把握し、発声器官の生成と同時に言葉の発声を繰り返すという恐るべき「模倣能力」は遺伝的なものである。また、「他人と同じように行動する」という人間の「模倣性格」が社会形成の動因であり、利他主義などではないとミリカンは考える(p28f)。彼女の文章から引用しよう。


>慣習的な言語要素のミーム的機能は、それらの要素がもつ一種の「意味」であり、したがってこの議論によって、<目的としての意味>と<記号の性質としての意味>のひとつのつながりが明らかになるだろう。(p27)


「目的としての意味」とは、人間が意識的に掲げることのできる目標や目的状態表象であり、ミツバチなどはもっていない(ミツバチのダンスは、事実認識と行動指令とが一体化しているので、「目的状態表象」だけを分離して所持することができない)。しかし、「目的としての意味」は特別に神秘的なものではなく、ミツバチのダンスがそうであるような「記号の性質としての意味」から人間の言語は”地続き”で繋がっている。その”地続き”を支えている一つが、「模倣」という遺伝的特性にもとづく「ミーム」的機能なのである。