ミリカン『意味と目的の世界』(10)

charis2007-06-30

[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)


[写真は、私の家の近所の荒川河川敷。よく散歩するのですが、今、早咲きのコスモスが満開。綺麗でしょう。6月30日撮影]


原始の生物も表象活動をするというミリカンの視点から、人間の言語を眺めると、どのような特徴が浮かび上がるだろうか。自然記号は生物個体の動作を導くアフォーダンスの一部として生成したが、人間の言語は、実践に無関心な「事実の記述」という、「遊んでいる表象」をせっせと蓄える。「我々はどう使ってよいのか分からないような事実を蓄えるのと同じように、どう充足すれば分からないような欲求を蓄えるのである。無関係な事実、無関係なアフォーダンス、無関係な夢を表象すること! 要するに、我々はありとあらゆる種類のがらくた表象を、まるで強迫観念に取り付かれたかのように収集せずにはいられない存在らしい。」(p299) そのような存在である人間の言語は、「連続的な動作を導くのにふさわしいような表象ではなく、推論において互いに自由に作用し合えるような表象である。」(302)


ここで言われる「推論において互いに自由に作用し合える表象」というのが、動物の表象と対比した人間の言語の特徴である。人間の言語は、複雑な視覚光景とは違って、単純な音素の組み合わせだから、いくらでも要素の"組み換え"が可能である。人間らしい表象とは、「主語と述語に分節化され、表象の内部における否定変形を受けうるという点で、ミツバチのダンスよりも文に似た表象である」(300)。「表象の内部において否定変形を受ける」という点が、動物の使う表象、あるいは絵や写真にはない、人間の言語だけがもつ性質である。たとえば、まずい餌を与えられた飼い猫が、「ニャオーン」と恨めしげに鳴いて飼い主を見上げることがあるが、これは「食べたくない」という意思表示ではあっても、「表象の内部において否定変形を受ける」記号活動ではない。「AはBでない」という否定判断、すなわち主語述語文とその否定形があることによって初めて、明示的な形で「我々の思考が否定変形を受ける」(309)。つまり、否定判断こそが、人間の言語をもっとも明確に特徴づけるものなのである。


否定判断の本性については、哲学者のさまざまな説があるが、ミリカン説の特徴は、否定の本質を「反対の肯定的な、ただし不確定な主張を行うこと」(311)に見ている点にある。「AはBでない」という否定判断の本質は、「Aは、CまたはDまたはEまたはF・・・である」を含意することにある。たとえば、「彼は背が高くない」「彼女は来ない」といった否定判断は、それで終わりなのではなく、「彼は中背、(または)背が低い」「彼女は急用ができた、病気になった、約束を忘れた、わざと振った」などの肯定的事態の可能性に我々の意識を置き換えることにある。ミツバチのダンスは、「・・・に蜜はない」という否定を表現することはできない。つまり、ある表現が、ただちに「それとは別の多数の可能性」を示唆するという芸当ができない。人間だけがそのようなことができるのは、単純な音素の組み合わせとしての言語の中に、あらゆる情報を表現できるからである。


人間の言語の素晴しい特質は、50音やアルファベットのようなごく少数の音素を組み合わせた配列の中に、あらゆる情報を表現する点にある。絵や写真であれば、たくさんの情報と”込み”でなければリンゴの存在を表現できないが、言語であれば、「これはリンゴだよ」と発音するだけでよい。乳児は生まれて数ヶ月の内に耳に入る言語の音韻構造の学習を終えるが(314)、言語とはとどのつまり少数の音素の組み合わせだからこそ、次々に生まれてくる子供は、言語を理解するや否や、これまでの全人類が苦労して手に入れた経験や発見のすべての情報を自分のものにすることができる。これは、どんな複雑な情報も単純な音素の組み合わせとして表現されているからである。そして、単純な音素の組み合わせだからこそ、そこに「・・・でない」「not」「nicht」「ne pas」という”単純な音”を付加するだけで、我々の関心を「他の肯定的な可能性」に一挙に振り向けることができる。「これはリンゴじゃない」と否定されれば、「じゃ何なの?」「そうか、よく見れば梨か」「いや、ゴムのボールでは?」等と、認識はただちに生産的な方向に向かう。


ミリカンは人間の言語を、「推論において互いに自由に作用し合える表象」と特徴づけているが、それは単純な音素の組み合わせだからこそ「自由に作用し合える」のであり、そのもっとも際立った特徴が、「否定」という作用である。なぜ人間が、否定判断によって他の可能性を意識しなければならないかといえば、それは、人間は「行動を指示しない」「遊んでいる事実表象」を膨大に貯め込んでいるからであり、動物のアフォーダンスのように、眼前の情報が自分を一つの行為に導く「オシツオサレツ」機能が働かない場合が非常に多い。しかしその代りに人間は、今自分のいる眼前の状況を、とりあえず「遊んでいる表象」のさまざまな文脈の中に瞬時に置き換えて、眼前の状況の「意味」をさまざまに読み取り、解釈することができる。そのような芸当ができるのは、我々の環境知覚はたんに感覚的に知覚されているだけでなく、「新しい感覚様相」(315)としての言語が加わって知覚されているからである(315)。


ミリカンの記号論は、自然記号から出発するところに特徴があるが、人間の言語をも「新しい感覚様相」として環境知覚と相関させて捉える点が興味深い。本書の第9章は、言語もまた一種の「直接知覚」であると捉えている。人間の思考が、単純な音素の組み合わせとしての線形系列である言語にもとづいていることと、人間の思考が、環境知覚的な空間から自立した線形時間を表象できて、その結果、未来の新しい事態を表象できることとは、どこかで関係しているのかもしれない。この点をもう少し考えてみたい。[続く]