長谷川宏『高校生のための哲学入門』

charis2007-07-16

[読書] 長谷川宏『高校生のための哲学入門』(7月10日刊、ちくま新書)(写真右は、著者近影。左は、詩人の茨木のり子との共著)

ヘーゲルの翻訳で名高い長谷川氏が、哲学や思想は個人の人生とどう関わるのかを模索した書。答えは、「本当の意味で、人生を楽しむため」というのが、本書の魅力的な主張であるが、高校生にはやや難しいかもしれない。本書は、「哲学入門」と題されてはいるが、そこで追究されている内容は、哲学や思想だけでなく、文学や芸術、宗教などを含む「広義の教養」の意義を模索することにある。ポストモダン風の気のきいた言い回しは見られず、むしろ愚直ともいえる文体は、「現代思想ふう」とは正反対のもので、「やや古めかしい」と感じる読者もいるかもしれない。だが、注意深く読むと、著者の体験と模索に裏打ちされた優れた洞察があちこちに見出されることに気づくだろう。


たとえば、第2章「人と交わる」や第8章「知と思考の力」で、著者は、西洋の近代小説を読みまくった高校時代、東大法学部から文学部哲学科への転科、全共闘運動、失望して大学を離れ、所沢市で塾を開き、ヘーゲルの翻訳や哲学研究を続けてきた50年間を、淡々と振り返る。西洋近代小説は、人間の地位や社会的身分ではなく、個人の「人となり」「人がら」に焦点を当て、個としての人間が自由を求めて挫折する姿を描き出した。このような「人となり」としての他者と向き合い、その多様性や自分との違いを「面白がり」「楽しむ」のが、もっとも望ましい人間の在り方なのだ(p46)。だがそれは、難しいことでもある。著者は、塾の子供たちと山奥の合宿や演劇祭を行い、子供の親たちと付き合い、PTAや地域の活動など、ながい模索を経て、「まわりに気兼ねしないで自分の考えをきちんと提示する魅力的な人物」や「一人の人間の個性的な生き方を支えるに足る透明な知と思考」に出合うことになる(p208)。


第2章「人と交わる」は、本書の中でも特に面白い。西洋近代文学が描いた個人の「人となり」「人がら」は、階級性などの社会的圧力を突破する力になった。「人となりへの関心は、支配と服従、指導と被指導などの縦の関係を突き崩すような心の働きなのだ」(49)。「自分と相手との関係のなかで違いと共通性をはっきりさせ、深め、面白がる。それが、人となりへの興味を軸とする交わりの基本だ。違うのは困ったことで、共通していることがうれしいといった、単純な区分けはもはや通用しない。違っていることにも十分な面白さがあり、違いの根拠をたずね、なるほどそういうことかと得心が行くようなら、こんな楽しいことはない。そういう間柄なのだ」(48)。


客観性と普遍性に通じる知と思考を大切にする西洋思想の伝統は、一方で「個人」の自由と自立をかけがえのない価値と認めるが、その自由が内実を持つためには、上下関係に束縛されない「人となり」への関心と、それにもとづく「人と人との交わり」がなければならない。抽象的個人の関係である「平等」は、顔の見える具体的個人である「人となり」の「対等」な交わりを前提している。社会契約論の思想家ルソーは、『新エロイーズ』の著者でもあり、『新エロイーズ』がその後の西洋近代文学にどれほど大きな影響を与えたかを考えれば、この長谷川氏の所説にも納得いくだろう。


西洋哲学や思想がなぜ役立つのかと問われたとき、「論理的」あるいは「合理的」思考の価値を言うだけでは、まだ片手落ちである。第4章「遊ぶ」や第6章「芸術を楽しむ」で強調されるように、感覚を開放し、「遊び」に「仕事」に劣らない価値を認めることも必要だ。何よりも、「関心の幅を広げることは生きることの楽しさを広げることにまっすぐ通じている」(59)。「意思の疎通や相互理解のむずかしさは、反面、わたしたちの生きる日常世界の豊かさと複雑さのあかしだ。むずかしさに立ちすくむ必要はない。むずかしさの中で、むずかしさを意識しつつ、人々は互いの関係を深めてきた」(212)。哲学や思想は、我々がこの「むずかしさ」へ立ち向かう武器の一つであるが、しかしそれは、「むずかしさの中を生きることを楽しむ」という根本姿勢があってのことなのである。