井上ひさし『ロマンス』

charis2007-09-14

[演劇] 井上ひさし作『ロマンス』 世田谷パブリック劇場


(写真下は、左から、大竹しのぶ(チェホフの妻オリガ・クニッペル)、松たか子(チェホフの妹マリヤ・チェホワ)、段田安則(壮年チェホフ)、生瀬勝久(青年チェホフ)、井上芳雄(少年チェホフ)、木場勝己(晩年チェホフ))

井上ひさしが、ボードビル(=歌や踊りを交えた小喜劇)形式で書き下ろしたチェホフの評伝劇。井上ひさしは、私の好みからすると、やや”泣きが強い”というかセンチメンタルなので、しばらく観ていなかったが、今回、まさに井上ひさしがこのような劇を書いたことに必然性を感じた。というのは、チェホフ自身はボードビルが大好きで、自分の作品の中軸を「笑い」と考えていたにもかかわらず、いざ上演されると「泣き」が注目され、その「笑い」の複雑な性質は今もってよく理解されていないからである。大ヒットした『ワーニャ叔父さん』は、これを観て「ロシアじゅうが泣いている」と評され、ゴーリキーは「一度も泣いたことのない私が号泣しました」とチェホフに手紙を書いた。チェホフは、人々の「苦い人生」を滑稽に描いた「暗い作家」だと評価されたのである。『かもめ』は「喜劇」と銘打ってあるが、悩み多き若者がボロボロになって自殺する物語である。チェホフの「喜劇」は、アリストファネスの陽気さ、モリエールのように人間が類型・硬直化する面白さ、シェイクスピアの「ロマンティック・コメディ」の美しさの、どれとも違う。笑えば笑うほど悲しくなる「泣き=笑い」の世界なのだ。


今回の井上の評伝劇は、チェホフが新しい「笑い」を創ろうとして苦しむ、まさにその場面に焦点が当てられている。劇中のチェホフは、「人はもともと悲しみを持って生れ落ちる。でもその内側に笑いは備わっていない。だから自分の手で作り出し、分け合い、持ち合うしかありません」と語る。医者であったチェホフの治療場面が幾つかあり、薬ではなく、患者自身が「笑うこと」が、病気に対する何よりの「薬」であることをチェホフ自身が発見する。特に面白かったのは、ペテルブルグでの『かもめ』初演が大失敗して自信を喪失したチェホフが、モスクワ芸術座のスタニスラフスキや女優オリガ・クニッペルと出会い、再演を決意する場面。初演の失敗は、喜劇を因習的な大げさな身振りで演じたからだとチェホフは覚る。しかし皮肉なことに、再演を大成功させたスタニスラフスキがチェホフの劇を「叙情劇」と解釈したことにチェホフ自身は大不満で、二人が激しくやりあう場面。そして、これは井上の創作だろうが、通俗的な人生訓を振り回す老トルストイがやってきて、チェホフを罵倒する場面。トルストイ自身が喜劇的キャラになっている。


若くして短編小説の名手として絶大な人気のあったチェホフは、自分の書いた類型的な「文学」に満足できずに、演劇というジャンルに試行錯誤で挑戦したのが、チェホフの演劇作品である。チェホフの劇にはテーマも主人公もなく、自己中でナルシスティックな人間が他者とコミュニケーションできない滑稽な場面が、執拗に描き出される。この「苦い笑い」はカフカベケットにも通じるのだが、井上の本作は、このような”新しさ”を「古い喜劇」しか知らない観客に分からせることがいかに困難であるかを示せている。考えてみると、笑いとは、一人で出来るものではなく、二人以上の対人関係の中で始めて生じる現象である。このような「笑い」の奥行きの深さを、チェホフは表現したかったのだと思う。


本作は、6人の俳優がさまざまな役を演じ分けるが、大竹しのぶが圧倒的に上手い。また男優では、生瀬勝久の演じた青年チェホフと、段田安則の壮年チェホフが味わいがあってよかった。チェホフの妹を演じた松たか子は、陰影が足りずやや単調。結婚もせずに生涯を兄のために尽くした妹と、チェホフの妻になった女優クニッペルとの間には、チェホフを巡る二人の女の戦いがもっとあったはずだが、それはあまり前景化されていない。というか、妹の人間造型がいまひとつよく分からなかった。