『アルゴス坂の白い家』

charis2007-10-07

[演劇] 川村毅作『アルゴス坂の白い家 クリュタイメストラ』 鵜山仁演出、新国立劇場


(写真右は、左から、エレクトラ(小島聖)、クリュタイメストラ(佐久間良子)、アガメムノン(磯部勉)。クリュタイメストラは刀を手にするが、だめ男になってしまったアガメムノンを殺せない。写真下は、左から、エウリピデスを自称する浮浪者、悲劇が書けない若い劇作家、トロイの英雄ヘクトル)。


ギリシア悲劇現代日本に翻案する試み。『アガメムノン』と『エレクトラ』を合作した物語だが、三重の劇中劇になっていて、原作とはまったく違うものになった。というか、原作とは正反対の、チェホフ風の家族をめぐる喜劇になった。作者の川村毅は、ギリシア悲劇のような「性と暴力のエネルギーに満ちた悲劇は、今はぜんぜん無理、説得力を持たない」(プログラムノート)と書いている。これが、この劇の主題なのだ。まず物語は、悲劇が書けなくて悩んでいる若い劇作家が、エウリピデスを自称する浮浪者の老人と会って、教示を受けるところから始まる。次に、その劇作家が書いたシナリオで映画を撮影する一家の話になる。それがアトレウス家で、アガメムノンは映画監督、妻のクリュタイメストラは大女優、娘のイフィゲネイアは大根女優、娘のエレクトラは新進作家、息子オレステスは父の「男らしくあれ!」という教育に反発して家出。同居しているクリュタイメストラの愛人アイギストスは、シナリオ作家でアガメムノンを助けて映画を撮っている。アガメムノンの愛人カサンドラもいる。『アルゴス坂の白い家』とは、この一家の暮らす家のことだ。


原作と違ってクリュタイメストラは、スケールの小さいケチな男であるアガメムノンを殺すチャンスがなく、そのために、娘エレクトラも母クリュタイメストラを殺すことができない。ずるずると皆生きているうちに、息子のオレステスが帰ってきてしまう。彼は父に反発するあまり、性転換手術をして女になっていた。しかも、アイギストスクリュタイメストラと不倫していなかったことが明らかになる。もう原作のような「格調高い悲劇」はどうやっても不可能になった。英雄もいないし、殺人など起こす勇気は誰にもない。といって、名門アトレウス家に悲劇が起こらなければ、一家は歴史に記憶されず、忘れ去られてしまうだろう。それでは悔しいので、仕方がないから、皆で「殺すふり、殺されるふり」をして、一応、物語をなぞってみる。その後は、すっかり白けたアトレウス一家はばらばらになり、各人が平凡に暮らす。数年ぶりに、娘エレクトラが花咲く美しいアルゴス坂の白い家に帰り、ブラームスの間奏曲の流れるなかで、母と和解する。最後に、母クリュタイメストラは、料理したシチューを家族たちにふるまい、「母」の存在がクローズアップされて幕。「さあ、生きていかなくては」という台詞は、『三人姉妹』のパロディなのだろう。たしかにイフィゲネイア、エレクトラ、クリソテミスは、三人姉妹だ。アトレウス一家は、結局、誰も死なないのだから、チェホフ的な散文的な人生を生きていくしかない。


たしかに物語構成の工夫は幾つか見られる。トロイ戦争がヘレネの不倫で起こったように、個人的な男女関係が現代の国家間の戦争にも影を落としており、新宿の高層ビルが9.11ばりにテロリストに襲われるという設定は面白い。カサンドラは、トロイを滅ぼしたギリシアに復讐しようとするテロリストなのだ。劇中で言われる、高層ビルのオペラシティがあるここ「新宿のアルゴス」は愛嬌だし、「父性の喪失」をアガメムノンにかぶせるのも、現代の家族の実相を突いている。


だが、全体として川村毅の物語を作る構想力は貧しすぎるのではないだろうか。古典をパロディ化するにしても、野田秀樹の物語はずっと面白い。アトレウス家に現代の家族の姿を逆投影するというのは、悪い発想ではないと思うが、ギリシア悲劇をパロディ化するなら、笑いの共感の軸をどこに置くか、もう少し深めるべきだろう。笑いが断片的で分散してしまっている。終幕のシーン、クリュタイメストラは「いいお母さん」になり、エレクトラは「やさしい娘」になったが、このように回収してよいものだろうか。