『たとえば野に咲く花のように』

charis2007-11-03

[演劇] 鄭義信作『たとえば野に咲く花のように アンドロマケ』 新国立劇場・中劇場


(写真右は、満喜(=アンドロマック)を演じる七瀬なつみと、康雄(=ピリュス)を演じる永島敏行。写真下は、康雄とあかね(=エルミオーヌ)を演じる田畑智子。)


トロイの王子にして英雄ヘクトルの王妃アンドロマケの物語を原作にしている。エウリピデス作『アンドロマケ』は、人物造型が類型的にすぎるので、ギリシア悲劇としては二流の作品だが、それをリメイクしたラシーヌ『アンドロマック』は、息詰まるような恋愛感情の激しさや、輝くばかりの美しい台詞など、ラシーヌの最高傑作の一つとも言われている。トロイ戦争に敗れ夫ヘクトルを失ったアンドロマック(アンドロマケ)は、アキレウスの息子ピリュス(ネオプトレモス)の奴隷となっている。ピリュスは、スパルタ王メネラオスの娘エルミオーヌ(ヘルミオネ)を婚約者として王宮に迎えているが、彼は本当はアンドロマックを恋しているので、エルミオーヌとの結婚式をずるずる延ばしている。だがアンドロマックはギリシアの敵将だったピリュスをまったく相手にしない。一方、アガメムノンの息子オレスト(オレステス)はエルミオーヌを激しく恋している。


つまり四人は、オレスト→エルミオーヌ、ピリュス→アンドロマックという片思いの関係にある。そして、結婚を実行しないピリュスに対して、エルミオーヌの感情は憎しみに変る。この片思いの愛憎と、ピリュスを挟む二人の女の葛藤、そしてオレストのピリュス殺害という悲劇に仕立てたのがラシーヌ版『アンドロマック』である。ラシーヌ版は、ギリシア悲劇を素材にしてはいるが、内容はルネサンス期の宮廷風恋愛劇に近いというべきだろう。たとえば、シェイクスピア十二夜』にみられるように、男性の求愛をどこまでも冷たくはねつけるヒロインという物語は、ルネサンスの宮廷風恋愛をモデルにしている。


今回の鄭義信『たとえば野に咲く花のように アンドロマケ』は、ラシーヌ版を基にしてそれを日本に置き換えたとされている。プログラムの「あらすじ」は次のように言う。

>1951年夏、とある港町の寂れたダンスホール。戦争で失った婚約者を想いながら働く朝鮮人、安満喜。そこへ先頃オープンしたライバル店を経営する安部康雄が訪れる。戦地から還った経験から「生きる」ことへのわだかまりを抱いていた康雄は、「同じ目」をした満喜に夢中になり店に通い詰めるが、満喜は頑として受けつけない。一方、康雄の婚約者あかねは、心変わりした康雄を憎悪しながらも、恋心を断ち切れずにいる。そんなあかねを、康雄を恩人と慕う直也が見守っていたのだが……。


たしかに、アンドロマック=満喜、ピリュス=康雄、エルミオーヌ=あかね、オレスト=直也の四人はラシーヌ版を模している。だが、登場人物だけ揃えても、物語のコンセプトや基調はギリシア悲劇ともラシーヌ版ともまったく違う(女たちの出産というハッピーな結末も原作と違う)。これを「ギリシア悲劇の現代への翻案」と呼ぶのは問題がありすぎるだろう。戦争の後遺症に苦しみながらも惚れた女/男を激しく追い求める庶民の活劇としてならば、本作は興味深い作品だと思う。だが、王や王妃、王女などが過酷な「運命」に弄ばれるギリシア悲劇や、それを恋愛感情劇に転換してみせたラシーヌ版は、それぞれに完結した世界が劇を有効に成り立たせていた。しかし本作は、「運命」に相当する要素として、太平洋戦争と朝鮮戦争を設定し、しかも、底辺で生きている庶民に、王侯貴族の宮廷風の恋愛感情を持ち込んだので、奇妙な混淆物になったのではなかろうか。俳優はみな熱演で、とても上手かったと思う。しかも今日は、楽日の前日。残念ながら、最初の「ギリシア悲劇の現代への翻案・三部作」という構想に無理があるので、俳優が悪いのではない。