永井均『なぜ意識は実在しないのか』(1)

charis2007-12-11

[読書] 永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波、07年11月)

(写真は、デカルト『人間論』の中の図版。「魂の場所」は難問中の難問。)


永井氏の新著が出た。「私と他者の非対称性」を一貫して追究してきた永井氏は、『私・今・そして神』『西田幾多郎』などの近著で、他の哲学者の学説を検討しながら、自説をさらに豊かに表現することを試みてきた。『私・今・そして神』では、独在的な<私>の「開闢」を「ライプニッツ原理」と呼び、その<私>を「われわれの中の一人である私」に客観化してしまう「カント原理」と対比するという仕方で議論がなされた。本書では、デイヴィッド・チャーマーズの大著『意識する心』を批判的に検討しながら、その対比がさらに洗練されて提示されている。面白い本なので、いくつかの論点の紹介とコメントをしてみたい。


「他者にも私と同様な意識はあるのか?」という問いは、永井氏によれば、奇妙な問いである。世界はどこまでも「私に」現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかない。だから、この光景の全体(=私の意識)が、光景の中の一要素である他者に属するはずはない。「意識」を考えるとき、まずはこうした「私−他者の非対称性」を前提しなければならないのに、多くの人は、「意識が脳に付随する」のように、意識をあたかも世界の中の一要素である「魂」のように扱っている。私の意識はつねに私に現れる世界の全体を"張って"おり、そのようなものとしての意識は、けっして世界の一要素である他者には帰属しえないことが分かっていない。とはいえ、このように扱う人々がまったく間違っているわけでもない。というのは、「私の意識」もまた「各自のもつ意識」の一例として、one of themになってしまっており、その理由は、私が根底から言語化されており、「言語が見せる夢」(p146)をいつも見ざるをえないからである。


本書では、独在的な「私」を表すために永井氏が以前から愛用してきた山カッコの<私>という表示が姿を消して、何であるかを示す記述内容を一切もたない<これ>という表示に取って替わられている。独在的な<私>をひたすら呼号し称揚するのでなく、そのような<私>を消してしまう「言語の力」を解き明かすことに重点を置いたのが、本書の優れた点であろう。本書において永井氏は、マクタガートが過去・現在・未来という時制について述べた「今」の「累進構造」を、「私」にも類比的に適用する。まさに「この今」である現在は、一つしかない絶対的なものであるはずなのに、しかし一方では、かつてはどの過去もそれぞれ「今」であったし、どの未来もやがて「今」になるだろう。このような「今」の構造は、一本の時間直線の上に表現することはできない。「この今」にとっての過去がかつて「今」であったとき、その「今」は再び、「その今の過去と未来」をもっており、さらに「その今」にとっての過去がかつて「今」であったときには・・・、というように、過去・現在・未来という三つの組がつねに新たに湧き出しつつ下降してゆく「累進構造」をもっている(p55)。


この「累進構造」を「私」と類比させるのは、「私の意識」もまた「現在」と同様に、「現実的で直接的なものが概念的で相対的なものに頽落し変質する」(p56)という構造的な変容が避けられないからである。この構造的変容に永井氏は、「意識が実在しなくなる」機制を見ようとする。たしかに我々の常識は、多数の人間の身体が同じ平面に並立しているので、他者のそれぞれの「意識」なるものを、それぞれの身体に帰属させて少しも疑わない。この常識に対抗するためには、現実の「今」は一つしかないはずなのに、すべての過去や未来もそれぞれ「今」であるという逆説と類比することが有益なのである。この類比がどこまで成り立つかについては、よく考えてみる必要があるが、本書のもう一つの柱は、「私」を「第ゼロ次内包、第一次内包、第二次内包」の三つに区分し、現実性−可能性という様相の文脈で言語による「人称化」作用を捉えようとする点にある。これもまた、かなり難しい論点なので、ゆっくり考えてみたい。[続く]