モーツァルト『後宮からの逃走』

charis2007-12-15

[オペラ] モーツァルト後宮からの逃走』 東京室内歌劇場公演 新国立劇場中H


(写真右は、2004年ベルリン・コーミッシェオーパーにおける、カリクスト・ビアイト演出の『後宮』。女たちになぶりものにされる召使オスミン。誰もトルコ風ではない。写真下は、2006年ザルツブルク音楽祭のシュテファン・ヘアハイム演出のそれ。ブロンデになぶられるオスミン。場所もトルコではなくすべてヨーロッパ。「後宮」も「逃走」もなく、まったく別の「結婚制度を笑い飛ばすパロディ」に仕立てられていた。)


モーツァルトのジング・シュピール後宮からの逃走』は、彼のオペラの中でも、演出家による大胆な「改変」がしばしば行われる作品である。その理由は、もともとの作品に、音楽なしにドイツ語の科白を語る部分が多いからである。そもそも太守セリムにまったく歌がない。さすがにモーツァルトの音楽の部分や歌詞は変えられないが、それ以外の語る科白を全部変えて、まったく別の物語にしてしまったのが、たとえば上記のヘアハイム演出。写真でなぶられているオスミンは、セリムの召使ではなく神父(!)に変えられている。ウェディングドレス姿の花嫁たちがドレスを脱いで反抗しているのだが、原作とは繋がらない話だ。


2004年ベルリン・コーミッシェオーパー版のYou Tube
Yutah Lorenzの裸のパフォーマンス(空中ブランコ)が美しい。
http://www.youtube.com/watch?v=0ylkSYCGOfg


こちらは"守旧派"、映画『アマデウス』より、『後宮』フィナーレ ↓

守旧派と前衛派では、身体パフォーマンスの使い方がかくも違う。
http://www.youtube.com/watch?v=1uaLaFNzwgc&feature=related


さすがに日本のオペラ演出はそんな無茶はしない。今回の東京室内歌劇場公演は(加藤直演出)、とても好感のもてるオーソドックスなものだった。最近では、『魔笛』なども含めてモーツァルトのジング・シュピールは、科白の部分は現地語で上演されることが多い。歌はドイツ語だが、語りはフランス公演ならフランス語、日本公演なら日本語である。これはとても良いやり方で、字幕に比べてずっと表現力が豊かで細部が分かるから、観客はよく笑う。今回の上演を見て思ったのは、演劇的な語りと歌とオケの旋律とが実にうまく配分されている作品だということだ。序曲の何ともいえない優しさ、そして、太守セリムとコンスタンツツェが帰還する際のわくわくするような音楽の盛り上がり。荒っぽい演劇的場面に寄り添う“癒すような”旋律の何という美しさ! 今までは、コンスタンツェのコロラトゥーラ・アリアばかりに気を取られていたが、むしろ脇役的な細部の音楽のデリカシーがこの作品の魅力なのだと思う。


たしかに、ポストコロニアル的視点からも面白い作品だ。コンスタンツェの召使のイギリス娘ブロンデが、「あんたみたいな野蛮なトルコ男が、自由に生きるヨーロッパ娘の私を口説こうなんて、笑わせんじゃないわよ!」と、太守の召使オスミンを鼻先であしらうシーンは痛快だ。だがトルコ人が見たらどうなのだろうか。太守セリムが最後に見せる「寛大な裁き」も解釈が難しい。セリムは若い頃にヨーロッパに留学していたから、野蛮なトルコ人「にもかかわらず」18世紀の啓蒙専制君主になりえたという解釈が多いようだが、どうなのだろうか。今回の公演も、第一幕末尾の帰還シーンは、太守はパリッとした洋装紳士で、イスラムの衣装ではなかった。まぁ、そんないろいろな理屈をすべてぶっとばして、大いなる調和を実現するのがモーツァルトなのだろう。