[読書]永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波、07年11月刊)
(写真は、マクタガートのパラドックスで名高い、J.M.E.McTaggart(1866-1925)。ケンブリッジ大学教授を務めたヘーゲル学者。)
永井氏は、独在的な<私>が「我々の一人としての私」にたえず転化せざるをえない過程を、マクタガートの「時制の矛盾」に類比する。今日は、この類比の意味について考えてみたい。マクタガートは過去・現在・未来という時間をA系列(=時制)、出来事が前後関係に並ぶ時間をB系列と名付けた。しかしマクタガートによれば、A系列には「矛盾」がある。それは、次の二つの条件が両立しないという「矛盾」である。
(a) ある出来事が未来であれば、それは決して現在でもなく過去でもないのだから、過去・現在・未来という三つの時間は必ず相互に背反する。
(b) どんな未来の出来事も、いつかは現在になり、そして過去になるのだから、すべての出来事は必ず、過去・現在・未来という時間を併せ持つ。
通常は、この二つは両立すると考えられている。その理由は、(a)が言うところの、過去・現在・未来の相互背反は、あくまで「同時に三つの時間ではありえない」という意味での背反であるが、実際には(b)が言うように、「三つの時間は順々に到来する」、すなわち、「ある出来事は、<最初は>未来であるが、<次に>現在になり、<その次に>過去になる」からである。だから、(a)と(b)は「矛盾」などしていない、と常識は考える。
だがマクタガートは、この常識をひっくり返す。常識は、「最初は」「次に」「その次に」のような「順序」を導入して(a)(b)を両立させているが、このような「順序」はA系列(時制)には含まれていない。A系列に含まれていないものを勝手に導入したのでは、もはやA系列ではなくなってしまい、A系列に固有の本性を明らかにすることはできない。(a)と(b)の両立は、あくまでA系列に属するタームのみを使って示されなければならない。とすればそれは、次のようなものになるだろう。すなわち、「ある出来事は、過去のある時点ではまだ未来であり、現在の時点では現在であるが、未来の時点では過去になるだろう」のように。だが、このように書けば一件落着というわけにはいかない。この新たな定式化をよく見てごらんと、マクタガートは言う。「過去のある時点では」と当然のように言われているが、それはあくまで、「この現在から見ているから」過去であるだけであって、その「過去の時点」においてはそれは「現在の時点」だったはずだから、「過去のある時点では」などと気安く呼べないはずである。そしてまた、その「過去のある時点」よりさらに過去の時点から見れば、その「過去のある時点」は「未来のある時点」だったはずだ。
たまたま私が「この現在から見ている」から、その時点を「過去のある時点」と呼んだだけである。しかし、たとえば、その「過去のある時点」を現在として生きているA氏は、「違うよ、あなたがそれを『過去のある時点』と呼んだのは間違いで、それは『現在の時点』だよ」と抗議するだろう。すると、さらにそれより過去を現在として生きているB氏が、「いや違うね、それは『現在の時点』ではなく、『未来のある時点』だよ」と異議をとなえるだろう。それに対して私が、「いや、何も問題ないですよ。私が『過去のある時点』と呼んだ時点が、Aさんにとっては『現在』であり、Bさんにとっては『未来のある時点』であるのは、Aさんは私の現在からみた過去にいらっしゃるし、Bさんは、Aさんの現在からみた過去にいらっしゃるからですよ。何の不思議もないじゃないですか」と答えたらどうか。これで話は終わるだろうか。いや終わらない。たちまち、さらに過去からC氏が現れて、「いや、Bさんがいらっしゃる「そこ」は『過去』ではなく、『未来』のはずですけど」と異議を唱えるだろう。こうした遣り取りがどこまでも続くのは、未来に視点を移動しても同じである。これが、いわゆる「マクタガートのパラドックス」と呼ばれているものである。
私は自分のいる「現在」を絶対的なものとみなして疑わないから、「この現在から見て」それを「過去のある時点」と呼んだのだが、しかしよく考えてみれば、そのような私は、それを「現在の時点」と呼ぶA氏や、それを「未来のある時点」と呼ぶB氏に比べて、本当は何の特権もないはずなのだ。そして、「そうだったのか、たまたま『この現在』にいる私は、『その現在』にいるA氏や、『あの現在』にいるB氏や、『さらなるあの現在』にいるC氏に比べて何の特権もないのだな」と、この<私が>納得した瞬間、私のいる絶対的な<現在>は、それぞれの人がそれぞれ持つ「現在」の一つであるone of themに変容している。
マクタガートの議論は、「未来」「現在」「過去」という語が使われているので分かりにくいが、その三つの語を言い換えて、ある出来事が「まだない」「今、現にある」「もうない」と置き換えてみると、問題の所在がよく分かる。同一の出来事が「まだない」「今、現にある」「もうない」と存在の「様相」を変えるのである。これは、「ある出来事が可能的である」「ある出来事が現実的である」「ある出来事が必然的である」という「様相」の在り方とよく似ている。ここに、時制と様相の類比が成り立つ理由がある。永井氏はさらにそれを、<私>を「我々の一人としての私」に変貌させる「人称化」とも重ね合わせる。すなわち、「人称化と時制化の根底にあるのは様相化なのですが、いまの問題を『私』と『今』の代わりに『現実』で考えてみると、面白いことが分かります」(p123)。つまり、「端的に現実的なもの」を、「可能的なものの一つとしての現実的なもの」に変貌させるのが、他ならぬ「言語の力」なのである。[続く]