野田秀樹『キル』

charis2007-12-27

[演劇]  野田秀樹『キル』 渋谷・コクーン


(写真下は、1997年の再演公演より)

1994年初演の作品。野田秀樹の魅力は、少年少女劇を大きな物語に仕立てる天才的な想像力にある。若者は、それがそこに存在するだけで美しい。そうした若者が、ギャグや言葉遊びを楽しみながら舞台を軽快に跳ね回るのだが、その物語には、つねに死と生の神話的な寓話性が貫かれている。『キル』もまた、『パンドラの鐘』『贋作・罪と罰』などとともに野田の最高傑作の一つといえるだろう。『パンドラ』の王女ヒメ女も、『贋作』のニセ坂本竜馬も、大きな夢をもつ若者だが、彼らの死はただの死ではない。生き残った我々一人一人が、彼らの死から自分の生を贈与されているように感じるのだ。この不思議な感覚。『ハムレット』だって、ギャグ好きで夢見がちな若者たちの青春劇だし、私は野田の作品から、『アウリスのイフィゲネイア』などのギリシア悲劇にも通じる、古典の香りを感じる。しかし、野田のヒロインやヒーローやその周囲の若者たちは、みな軽快でコミカルで美しい。イエスアンティゴネ、コーディリアなどとは違って、彼らはどこにでもいそうな等身大の若者だ。野田は、『キル』のプログラムノートに、「等身大の人生を描く演劇なんて、我々の敵だ」と書いている。その通り、野田の演劇の核にあるのは大きな夢をもつ神話である。その神話を、等身大の若者によって作り出したところに、野田劇のもつ比類のない美しさと、いとおしさがあるのだろう。


『キル』は、「kill」と「(刀で)斬る」と「(服を)着る」という三つの意味を持つ物語である。場所はモンゴルの大草原。主人公は若き日のジンギスカン、その名はテムジン(妻夫木聡)。彼の妻となる美人のファッションモデル、シルク(広末涼子)、そしてテムジンの仲間たちや両親たちの物語だが、何より面白いのは、テムジンは天才的なファッション・デザイナーだという奇想天外な設定である。彼は、大草原に張られたテントの中で、ひたすら一台のミシンを踏み続ける。何もない空間の一台のミシンが、限りなく大きい夢を紡ぎ出す。彼の世界「征服」は、「世界の制服」を作ること。ジンギスカンの恐れられた別称「蒼き狼」は、ここでは、テムジンの世界的なブランド名なのだ。彼は、敵対する世界的ブランドの「ヒツジ・デ・ギャルソン」と戦って打ち勝ち、「シャネルの大河」を渡って、西洋に進出する。そのように快進撃したテムジンとその仲間たちだが、ニセブランドの「蒼い狼」に追撃され苦境に陥る。仲間の誰かが型紙を敵に渡したのではないかとテムジンは疑い、その大混乱の中で同志が死に、そしてテムジンも死ぬ。しかし、彼の死と同時に、赤ん坊のテムジンが生まれ、死は生へと転生して終幕。


テムジンの父と、テムジンの子である少年バンリ(52歳の野田秀樹があのキーキー声で熱演!)も登場するので、形式的には三世代の物語だが、時間が線形に流れるわけではないので、実際はテムジンとその仲間たちの若者劇である。モンゴルの大草原を生きる素朴な若者たちが、文化の最先端であるファション戦争を戦うのだ。テントの質素な質感が、ファッション素材の美しさにもなっている。テムジンもシルクも字が読めない。文字が読める者は一人しかおらず、彼が代筆・代読する「て・が・み」によって、テムジンとシルクに恋が芽生え、シルクは結婚を了承する。"エクリチュール"は二人にとって、天地創造に立ち会うような瑞々しさがある。ギャグ一つとっても、言葉が輝いているのだ。とはいえ、『キル』はやはり少年テムジンの物語で、シルクは脇役にすぎない。「蜃気楼を地平の果てまで追い続ける」テムジンの姿には、人間に与えられた自由という贈り物の両義性が刻印されている。終幕、誰にも知られず孤独に死んでゆくテムジンの独白。こんな素晴しい科白が書ける劇作家が、野田以外にいるだろうか。


「それともこのミシンの夢は、死んでゆく俺の景色なのか? だったら、慌てることはない。急ぐのは生きている時だけだ、俺の葬式は青空の日を選んでやれ。それもとびっきり真っ青な青空だ。そうか、ああ、そうか、ただ見上げればよかったのだな。モンゴルの空の青さが、ここにある。空の青さは世界のどこまでも続いているんだな。この世が生まれた時から、青い空は世界の制服なのだ。その青空の風と光の中に、さあ、俺の骨を砕いてばらまくがいい。熱い風と白い光が俺をモンゴルに返してくれる。その日、俺は生まれるだろう。ミシンが夢見た日、俺は産声をあげるだろう。」