内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(1)

charis2008-02-04

[読書] 内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』('08年1月、文芸春秋社)


(写真は、17世紀フランスの絵「ナルシス」)


本書の中心テーマは、若者の考え方の基調にある「自分らしい生き方」「私探し」「自己決定」「自立した人生」などへの根本的な批判。「他者に煩わされず自分の好きなように生きる」というのは、一見すると自由でよいように思われるが、実は「生きる」ことの内実を貧しいものにする。著者はそれを、レヴィナスの根本テーゼ「pour l’autre 他者のために/他者の代わりに/他者に向けて/他者への返礼として」あるいは、「贈与」(=人は自分の欲するものを人に贈与することによってしか得られない)によって基礎づける(p90,279)。現代では「隣人愛」がすたれたのは、若者が自己愛に夢中になったからではない。「本当の自分」という錯覚のせいで(=「本当の自分」だけを愛したい)、自分を愛するとはどういうことかが分からなくなり、その結果、隣人を愛する仕方も分からなくなったのだ(p274)。この指摘は鋭い。本書は学ぶところの多い優れた本で、多くの点で深く共感するが、ここでは、私と内田氏の見解の違うところだけをアップしてみたい。


たとえば、私自身は、「本当の自分」という自我概念の成立にはかなり深い歴史的根拠があると考える。アメリカのコミュニタリアンの哲学者チャールズ・テイラーの著書『<ほんもの>という倫理―近代とその不安』によれば、「ほんものの私」という概念あるいは「自我のナルシシズム化」は、カントが、他のものの手段ではなくそれ自身が目的になる「美意識」を説いて以来、人それぞれの「自分らしさ」を推奨したヘルダー、美的全体性を道徳に対置したシラーなどを嚆矢とする。美少年ナルシスの名を冠した「自我のナルシシズム」は「美の自立」と連携しており、芸術家の創造活動をモデルに「個性的な自己」が理解される。「自己発見にはポイエーシスが必要」なのだ。その後、「ほんものの自己」のナルシシズム化が進んだ要因の一つに、ニヒリズムを背景とする「高級な文化」路線があり、自我のナルシシズム化に「深遠な哲学的正当化の粉飾をほどこした」思想家として、ポスト・モダンの元祖ニーチェ、無際限の自由の感覚を抱かせる「自由な戯れに興じる」デリダ、「自己の美学に酔いしれる」フーコーなどを、テイラーは批判的に論じる。


内田氏もまた「共同性の再構築」を説くという点では、テイラーと共通するところがあり、レヴィナスヘーゲルに依拠しながら「ほんものの私」路線を批判する。ただし、内田氏の考察は、日本の若者が「個性志向」を持つようになった理由を、1980年代のバブルや日本がグローバリゼーションの波に洗われたことなど、比較的短期の要因に求めている。これは、ここ二十数年の日本の分析としては当たっているのかもしれない。しかし、自我のナルシシズム化はもう少し長い歴史的射程で捉える必要があると思われる。「ニート」という語がイギリスの引き籠り青少年を呼ぶための新語であることからも分かるように、自我の「孤立化」「縮小化」、男女の晩婚化、未婚化、少子化などはアジアを含めた先進国で共通におきている現象である。日本の若者だけが「縮小する自我という病」(p246)を抱えているわけではない。


イギリスの社会学者ギデンズによれば(『モダニティと自己アイデンティティ』)、伝統的社会が流動化すると、共同体の中に埋め込まれていた個人の「脱埋め込み化」が生じる。たとえば、結婚は個人の自由になり、親や共同体が面倒をみるものではなくなった結果、相手を見つけるのも「自己責任」になった。伝統的社会のように子供は親の職業を継ぐわけではないので、子供がそれを踏襲すればよかった安定した「生き方のモデル」や「人生の型」もなくなった。「私探し」は、そのような状況を背景に生まれたものである。昔から女性は労働していたが、しかし農業も小売商も家族単位の労働であり、個人単位の収入ではなかった。明治時代の「女工」の給与も父親に支払われた。それに対して現代の女性は、高学歴化に伴い、自活していけるだけの収入を自分個人で得られるようになった。仕事に自己実現の道を見出す女性にとって、結婚が二次的なものになるのは当然であり、少子化も必然なのである。これは別に悪いことではないと思う。内田氏は、メディアに載らない女性の「早婚志向」(p59)に一抹の希望を見出したり、あるいは「プロジェクト佐分利信」(63)という見合いをあっせんする「おせっかいなおじさんネットワーク」を立ち上げたそうだが、そうした方向で「解決」できるなら結構な話だと思う。しかし問題はもっと根が深いのではないだろうか。[続く]